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父と祖母の死

祖母千寿が4月28日に数え歳百三歳で亡くなり、父勲矣も7月10日に同九十三歳で逝った。いずれも死亡診断書には「老衰」とあった。2人とも眠るような死だった。
 祖母は98歳まで自宅で主に母統子が介護して過ごしていた。固形食が食べられなくなり、市内の特別養護老人ホームのお世話になった。27日夜、様態がおかしいとの連絡が入り翌28日の早朝、眠るように逝った。高齢でもあり、無理な延命治療をしないでくれと、頼んでいた。栄養点滴特有のむくみも無く、きれいな死に顔であった。
 父は89歳まで歳を感じさせないほど元気であった。その年、2度続けて脳梗塞の症状が出て、武雄市の病院にお世話になった。しかし、右足が不自由になっただけで、杖をつくと歩ける状態で、退院してきた。それから二年、不自由なく寺で過ごし、今年5月には、久留米市であった孫の結婚式に出席するほどであった。
 父の死の引き金を引いたのは、二人三脚で寺をもり立ててきた祖母の死だったと思う。祖母の死から、2週間ぐらいだったか5月中旬、圧迫骨折の疑いで、多久市立病院の整形外科に入院、そのころから食べ物を受け付けなくなった。圧迫骨折は治癒したものの、相変わらず食べ物の摂取量は、ほんの少しで、そのまま内科病棟に移った。
 6月はじめ、熱が収まらず、肺炎の疑いが出てきた。しかし、父の驚異的な生命力で、抗生剤の点滴で乗り切った。6月末、医師より、「栄養を摂取しないと死期が早まる」と告げられたが、無理な延命治療をしないでほしいと、母、私共に医師に相談した。中心静脈栄養、鼻からの栄養補給、胃ろうの栄養補給などをしないで、腕からの点滴で最低限の栄養、水分補給を行った。その間、久留米市、福岡市、大津市に住む妹(父からいえば子どもたち)や、それぞれの合計12人の孫が、次々にお見舞いに訪れてくれた。父ももうろうとした意識のなかでも、孫の見舞いに嬉しそうな顔を見せた。
 7月6日、担当の医師から呼ばれ、点滴する血管が萎縮し、点滴が出来ない事を告げられた。母も私も、最初から決めていたように、延命治療をしないで、尊厳ある最期を希望した。点滴をやめて、痰も出なくなり、むくみも無くなった。同月10日朝8時過ぎ、様態が急変したと病院から連絡を受けて、寺の正面にある市立病院に向かった。本当に眠っているような最期だった。死亡診断書には、祖母と同じ「老衰」とあった。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 10:57 AM | comments (0) | trackback (0) |

理事長というオシゴト

 平成25年の12月に社会福祉法人もやいの会の設立認可が下りて、「理事長」なるオシゴトをすることとなった。26年の3月までは、独りで。4月からは新人を雇い入れ専称寺役員でもあり、障害者福祉に長い経験がある黒岩義秋さんと3人体制、9月からは4人に増えた。今年の4月1日オープンを目指して今は何人ものスタッフ、ボランティアが働いている。
 「理事長」とはいっても、無給ボランティア。本業は、専称寺の住職だと常に念頭に置いて、働いている。無給とはいっても、理事長であることに変わりはない。大半の業務はスタッフがやっていただく。税理士、司法書士、社会保険労務士など専門家に意見を仰ぐことも多い。しかし理事長として時々大きな決断をしなくてはならない。長期展望の計画作り、これに伴う財政問題、雇用、給与、人事などなど。20代からこっち、新聞社、放送局、それに寺の住職をした経験しか持ち合わせていない僕にとって、財務諸表、法律、行政文書は、分からないことだらけ。うーーん。
社会福祉法人もやいの会の目的は障害者支援センターまやの経営である。「まや」の目的は、障害者を日中生活していただいて、一部は働いてもらって、工賃(給与)を出すことである。障害を持つ方をおあずかりすると、厚労省(県の障害福祉課が窓口)からお金が出る。今回、大型のトマト養液栽培ハウスを作った(このトマトが甘くて評判になっている)が、これに対しても農林水産省から工費の半額以上の交付金が出た。いわば、社会福祉施設は、税金のカタマリなのである。
 税金を使わせていただいている故に、審査も厳しく、監査もそれ以上に厳しい。農林水産省の交付金を得るために、A4用紙で百枚以上、書類を作成した。法人認可の多久市や、施設認可の佐賀県にも似たような枚数の書類を作った。
 行政とは書類である、書類に不備、矛盾がなければ、以外と優しい。しかし不備、矛盾を指摘するのはあくまで、国や県や市。お上には逆らえないのである。理事長なる仕事をして分かったことその一である。
 分かったことその二は、理事長なるオシゴトは、孤独であるということ。誰にも相談できないことが、意外と多い。「まや」の運営は、出来るだけ民主的と心がけているが、それでも、エイヤーッと決めてしまわなければならないことがある。それが案外とプレッシャーだったりするのだ。まぁ、十年後には佐賀県の代表的な事業所であると評価されることをめざしひび、苦労します(住職独白)

| ポクポク木魚 | 10:56 AM | comments (0) | trackback (0) |

ユニセックストイレ

 今回はアメリカの話題ばかりですみません。わずか9日間のアメリカの旅で、たいしたことは言えないのですが、感想を幾つか。
 思ったより以上に、健康幻想を追求する街だなぁと感じた。まず徹底した禁煙社会、路上もレストランも、ホテルの部屋まで全て禁煙。ヘビースモーカーの私には、キツかったぁ。あと、オーガニック(organic)という単語をいっぱい聞いたということ。もともとは「有機の」という意味だが、農薬を使わず、化学肥料も必要最小限とする有機農業のことも指す。オーガニック・レストランには、健康志向の富裕層の客が多い。
 アメリカに行った方はご存じでしょうが、一般のレストランでステーキやハンバーグを頼むと極厚の巨大なものが、出てきてギョッとなることが多いもの。ただオーガニック系のお店に行くと、京料理とは言わないまでも、いかにもカロリーには注意していますという少量の料理が用意される。
 で、驚いたのは、高級感漂うオーガニックレストランに行った時、トイレが男女共用だったこと。トイレボーイがいて、個室を案内してくれ、1ドルぐらいのチップをあげるのは、どの高級レストランでも同じだが、ここは男女共用で、ずらっと個室が並んでいた。
 「これは、男女差別撤廃のひとつとしてこうなったのだ」と確信に近い思いで、一緒に会食していたカルフォルニア大マーク・プラム教授になぜトイレがユニセックスなのか聞いた。彼によると、ウーマンリブ系の活動からこうなったのではなく、性同一障害への配慮からこうなっているのだという。エリート層が集まるレストランは、こうしたユニセックストイレが多いという。
 つまり、自分が女性と思っている男性が、女性トイレに入りづらく、逆もまた同じと言うことだと説明してくれた。また、男性が立ってオシッコをするより、座ってした方が、より衛生的だとも言う。
 また彼によると、肥満と喫煙者は、アメリカでのエリート層には入れないという。健康で筋肉質な人だけが、アメリカの指導者層に生き残っていけるのだそうだ。
 「肥満も喫煙も悪」かぁ。私は肥満こそないが、煙草すうからなぁ。まぁアメリカのことだから関係ないかと、思ってしまったところでした。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 10:55 AM | comments (0) | trackback (0) |

タイちゃん

 タイ(泰史=たいし)ちゃんは、うちの次男だ。二歳の時の百日ぜきをこじらせて、肺炎となり、高熱が続いて重度の知的障害を背負った。その彼も、体格も大きくなり現在、特別支援学校の高等部二年生、思春期まっただ中だ。
 彼には奇矯な癖がある。母親への反抗が昂じて、着ているものすべて、脱ぎ捨てて境内に飛び出すのだ。境内だったらまだいい。今年になって、何度か町まで素っ裸で飛び出した。立派な刑法違反である。
 「タイちゃんが、うちの前を走っていったよ」「タイちゃんが今ここにいるよ」。いろんな方々が、電話でタイちゃんの居場所を教えてくれる。体をくるむ毛布をもって、携帯電話で情報をやりとりしながら、タイちゃん捜索が始まる。警察も心得たもので、二度目以降は簡単な事情調査で終わりとなる。
 親の責任として、地域の方に迷惑をかけたと反省する。それよりも、様々な人々から、タイちゃん情報が寄せられるのに、心から感謝する。
 都会ではこうはいかないと思う。十六歳の青年が裸で町を徘徊したら、一晩は警察のお世話にならなくてはいけないだろう。
 昔々、昭和三十年代、私が小学生の頃、多久の町にはアサオさん、ハットリさん、マンちゃんと今で言う知的障害、発達障害の方がおられた。街をうろうろし小学生をからかうのが趣味のアサオさん、生家の八百屋を手伝い五キロ先の市場まで毎朝、往復するハットリさん(先日久しぶりに法事でお会いしてお元気だった)、馬引きのマンちゃん。マンちゃんは、子どものおちんちんを握るのが癖だった。でも、子どもたちは、この三人に、半ば恐れながら、半ば楽しみとして出現するのを待ち焦がれていたような気がする。多久の町は温かく、時には厳しくこうした障害者を受け入れていた。
 厚生労働省が近年、「障害者との共生」と言い出した。何を今更と思う。高度成長期、障害者を町から引きはがし、山中のコロニーに隔離した犯人が厚労省だ。「共生」という言葉も新造語のように響くが、浄土宗は法然上人の教えの核心部分として「共生」の言葉を明治時代から使っている。
 タイちゃんの一件は、多久には、昔ながらの共同性が残っていることを、思い起こさせた。
「共同性」という難しい言葉を使わずともいい。顔見知りの社会が、どれだけ人に優しいか。そんな社会がこの日本にまだまだいっぱい残っていることを祈っている(住職独白)

| ポクポク木魚 | 10:53 AM | comments (0) | trackback (0) |

リロケーション・ダメージ

 介護の世界で「リロケーション・ダメージ」(Relocation Damage)という言葉があるという。ネットで調べたら「リロケーションダメージとは、住んでいる場所が変わることが精神に及ぼす悪影響のこと。認知症の高齢者の場合、介護されるために(子供の家などへの)転居したり、介護施設に住み替えることで、新しい環境や人間関係が精神的なストレスとなり、認知症が急速に進むことがあるため注意が必要」とのこと。
 私自身も、住職を十数年させていただいて、この現象がよく分かる。高齢者になって認知症が進み、遠くの子どもの家、介護施設に移ったとたん、亡くなるケースを何度も見てきた。
 こうした現象の背後には、三世代同居がほぼ無くなったという事実がある。2012年の国勢調査で、1~2人の所帯が55・7%、家族が縮小した。それに加えて三世代同居が全所帯の5%を切ってしまった。ある民間の調査結果だが、半径25キロ以内に、子どもが住んでいない高齢者世帯が3割を超すという結果が出た。
 こうした背景に加えて、高齢者側の事情もある。高齢者の最大の未来に対しての「希望」は①ポックリ死ぬこと、次いで②子どもたちに迷惑をかけたくないこと。つまり親(高齢者)の側の意思で、長年住み慣れた土地に踏みとどまり、遠くの子の家に移りたくない、遠くの介護施設に入りたくない、そんな思いが強いという。
 たしかに「子どもと住みたい、孫と過ごしたい」という思いと、「子ども特に嫁に迷惑をかけたくない、友達もなく言葉も違う見知らぬ土地で最期を迎えたくない」という相反する感情で、ぎりぎりまで故郷に踏みとどまる高齢者が多い。
 幸い、多久には昔ながらの「共同性」がかろうじて残っている。深夜徘徊する認知症のお年寄りが、地域の人の通報で、すぐ家に戻れたとか、一日二日、顔を見ないので、独居老人に声かけをしてくれたとか、そんな事例に事欠かない。また多久でも、それまで特老と老健施設しかなかったのが、ここ10年でNPOなどによるグループホーム、有料老人ホームなどが次々と建設された。
 リロケーションダメージを回避するためにも、これまで以上に介護の地域の医療・介護・福祉が連携した包括的なケアが必要だと思う。配食サービス、在宅ケアに始まって、介護度に応じて、日中ケアサービス、グループホームなどの選択が豊富にあれば、子どもと遠く離れて老後を過ごしても、安心して生活できる。
 後期資本主義時代に入って、ますますこれから、企業の論理が強くなり、労働の場と、子育て、介護の場の乖離が激しくなるだろう。そうなった時に、介護現場の充実は、老年人口の増加と相まってますます必要だと思う。(住職独白)


| ポクポク木魚 | 10:51 AM | comments (0) | trackback (0) |

終活と遺品整理と

 このごろ「終活」についての講演に呼ばれることが多くなった。ご存じだと思うが終活とは、「自らの最期のための準備」。遺産の法的処分や、遺言状の書き方などは、司法書士や公証人に任せて、私はもっぱら、死のための心の準備についてしゃべっている。話していて、気づくのは「死」まで「自己責任」の範疇に入ってしまったのかという、ため息にも似た思いである。
 昭和30年代までの伝統的家族が健在なころは、人の死も自然であった。家の中で病み、そして死を迎え、野辺の送りまで自宅で行い、家族の成員は、それをごく当たり前のものとして受け取った。今は、施設で老い病院で最期を迎え、葬儀も斎場で行われる。死がちっとも日常ではなくなった。だからこそ終活なる言葉が流行するのだろう。
 時代の変化が、死の自己責任化を生み出した、とも言っていいだろう。講演では、臨死体験の話や、死に際しての五つの心構えについてしゃべっている。その五つとは「〇手放す〇許す〇まかせる〇感謝する〇別れを言う」である。
 現在の80代の方々は、高度成長期にちょうど働き盛りだった世代だ。昨日よりも今日がいい生活、昨年よりも今年が豊かな生活と、なりふりかまわず前進してきた世代だ。そのために家財も多い。なかなかものを捨てきれない感覚の持ち主だ。
 そんな人々を前にものを「手放し」なさい、そして、人との縁を豊かなものにするためにも「許し」なさいと説いている。怒りや怨みをもっていても、ほとけさまにはなれませんよ、あなたの中だけでも許しましょうよ、と喋っている。
 そういえば、この頃、遺族から遺品整理が大変だとよく聞くようになった。三世代同居がほぼ無くなり(一昨年の国勢調査で5%を切った)老親と子は別所帯が主流だ。そうすると、親を看取った後に、膨大な親の遺品が残ってしまう。思い出の品だけに、捨てに捨てられないものも多い。こうした現実もあって、自らの死に際して、「手放す」ことの大切さ、仏教の文脈で言えば、ものに執着することの無意味さを教えている。
 そして「まかせる」。これは二つの意味で重要だ。子にまかせる、ホトケにまかせる。自我を捨てること、死が近くなって我欲もあるまい。すべて人にまかせる心、そして最期は仏にまかせ、みずからも仏となるという仏教の教えを説く。残りの二つは、案外難しい。死に際して、ちゃんと家族に「ありがとう」といえるか、「さようなら」といえるか。
 講演の最後に、尊厳死のすすめを付け加えている。様々な延命処置を施されて、パイプに繋がれたまま何年も生きることの意味があるのかどうか。尊厳ある死を迎えるために、尊厳死協会の発行する「私の病気が現在の医学では不治の状態であり、すでに死期が追っていると診断された場合には、徒に死期を引き延ばすための延命措置は一切お断りします」などとする宣言書を紹介、終活の講演を終わっている。一度、自らの最期を真剣に思ってはいかがでしょう。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 10:50 AM | comments (0) | trackback (0) |

障害者支援センターまや

 社会福祉法人を新設して、障害者支援センターを開設しようとしている。まだ確定したわけではない。その途上だ。
 私の次男は、障害児だ。2歳の時に百日咳をこじらせて肺炎となり、高熱が続き智慧遅れとなった。16歳だが知能は3歳程度。3年近く前、障害者支援の世界に長いあるお檀家さんから「和尚さん。お寺で社会福祉ばせんば!」とたたみかけられて、次男の体験もあったので、つい「やってみようか」と思った。障害児を持つ親の絶望感が分かち合えるような気がしたからだ。仏教のいう慈悲心は、現代では社会福祉活動でもある。
 設立準備会を開設したり、あれこれ活動をしていたら、今年4月に、多久市が学校合併による廃校を利用する業者を探しているとの情報があった。7月にコンペがあり、私たちが優先交渉権者として選ばれた。
 会の名前はこの寺だよりの名前でもある社会福祉法人「もやいの会」、施設は、知的障害者、精神障害者を中心に定員40人を目指す小規模多機能型だ。施設の名前を「障害者支援センターまや」と考えている。「まや」とは言うまでもなくお釈迦様のお母様のお名前だ。福祉には母性が必要だと考えたから、そう名付けた。役員候補には、専称寺の役員を中心に地域の福祉関係者になっていただいた。社会福祉法人の基本金に、専称寺が平成元年から少しずつ積み立てていた基本金から寄付させていただくことになった。多久市から譲渡いただく学校は、旧南部小学校。運動場・体育館を除く校舎で、敷地は七千㎡、延べ床面積は三千五百八十㎡もある。施設の開設予定は、平成27年4月。
 福祉の世界では、「障害者自立支援法」から「障害者総合支援法」に替わって、様変わりしているという。競争原理の導入、地域との共生、サービスの提供主体を市町村に委譲など。私たちの目指す施設は、「総合法」でいう就労支援施設。とくに障害の軽い人々には、ちゃんと雇用契約を結んで、工賃を支払わなくてはならない。工賃を支払うためには、当然ながら国からの支援費だけでは足らない。就労事業を行うこととなる。
 就労事業の基本テーマを私たちは「食と農」とした。食や農のノウハウは、この地域の人々の中にぎっしりと詰まっていると思ったからだ。事業は、旧南部小学校の広い建物、敷地を利用して、ハウスによる水耕栽培、菌床栽培によるきのこ生産、お菓子生産などを、少しずつ充実させようと計画している。いずれは、障害者のためのグループホーム、ケアホームも計画中だ。
 私の曾祖父の妹は、生まれながらの全盲だった。三味線と箏の教授で生計を立て、私が小学生の頃、90歳で他界した。その頃までは地域の中に障害を持つ人々が生き生きと生活していた。それがいつの間にか、高度成長時だと思うが、障害者は山中のコロニーに押し込まれた。それを社会に戻すのが、私たちの使命でもある。共生社会の実現は、縁起思想によってたつ仏教者の使命でもある、と思う。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 10:48 AM | comments (0) | trackback (0) |

里山としての多久

 境内にアナグマが出た。八年ほど前、寺の森にコナラ(ドングリ)、クヌギ、クルミ、クリ、ブナなど実のなる落葉樹を植えた。昨年冬までは、その落ちた実から芽が出て、下草払いで手こずった。しかし、この冬から、全く落ちた実を見かけなくなった。不思議な思いをしていると、寺の境内を清掃してくださっている檀家の奥さんから「なんか小さな動物が、境内を横切って、お地蔵さんに供えてあるお菓子を食いちぎって逃げた」と教えてもらった。それからまもなく、寺で飼っている猫(雄)が、前足に大きな傷を負ってきた。獣医に相談すると「この傷ははアナグマですね」と。そうか、森に実が落ちていないのはアナグマが木の実を集めているからなんだ、と気付いた。寺の裏のどこかに巣を作っているらしい。
 寺に住んでいると、様々な野生動物に出会う。二十年ほど前だったが、テンが天井裏に巣を作って出産したことがあった。イタチも同じように天井裏に巣を作った(天井にシミができるので寺の管理上は困るのだけれども……)。民話・桃太郎に出てくるキジもサルも見かけた。極彩色のキジはとても綺麗だが、戦闘的である。寺で飼っている犬と喧嘩をしていた。モズ、ツグミ、ウグイス、メジロなど野鳥も、毎日境内で見ることができる。
 専称寺の建つ本多久は、里山の地である。八幡岳(標高764㍍)、鬼の鼻山(標高434㍍)、中世に多久家の山城があったと伝えられる城山(標高201㍍)、等々の山々に囲まれた旧い城下町だ。戦前は、多久の里山に木炭の材料として、カシなどが植えられ、戦後は植林ブームでスギが植栽された。昭和三十年代に入ると、里山のほとんどがミカン園となった。そして今、スギの人工林は、輸入材に押され材木価格の低迷により管理するものも少なく、公有林以外は荒れ放題。ミカンも価格下落によりミカン園は大半が廃園となり雑木林が復活している。
 野生動物が、里山に復活したのは、こうした山相の変化と関係あるのではと思う。皮肉なことではあるが、人が山に入らなくなって、野生動物が復活した。イノシシなどはあまりの繁殖ぶりで、畑作物などを荒らし、駆除の指定動物になっている。タヌキもキツネもよく見かける(というか、交通事故に遭って道ばたでよく死んでいる)。先日、友人の農家から聞いたことだが、数年前、環境省のレッドデータブックに掲載され絶滅危惧種になり話題となったメダカも、このごろ色んなところで見ることができるという。
 この国は、人口減社会に突入した。地方はますます過疎化が進むだろう。多久市は、二十年後に三〇㌫以上、人口が減るという予測が出ている。しかし、それはそれでいいのではないか、と思う。戦後から高度成長期に、あまりにヒトが山に入りすぎたのではないか。自然を開拓しすぎたのではないか。「山のものは山に返せ」という言葉を聞いた。山野に対し、最低限の手入れは怠ってはいけない。が、民話に出てくるような野生の小動物と共生できる自然を再生していくことこそ、里山に住むものの使命だと思っている。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 03:16 PM | comments (0) | trackback (0) |

藩政期の終わり

 藩政期とは江戸時代のこと、今さら江戸時代が終わったとは、何事なのと考える方が多いでしょう。でもお寺の周辺には、江戸時代から受け継いだ制度、儀礼、風習だらけだったんです。その江戸時代からの様々なものが、もうほぼ終わったなぁという感慨があります。
 まず「名家」が無くなくなりました。というより「家制度」が青息吐息の状態です。昭和四〇年代までは、お盆のお参りに行くと、お座敷の床の間に、数百年前からの位牌をずらっと並べて、お祀りしている家がいくつも多久にはありました。それが絶滅しました。江戸時代に多久家・上級武士の家の由来を調査して冊子にまとめた「水江臣記」という古文書があって「多久古文書の会」によって、読みやすい活字本になっています。これを見ると鎌倉期以降の家の歴史をちゃんと後世に伝えている。そんな名家が、今はもう絶家したか、多久を離れて全国に分散しています。家の歴史を知る現代人がどれほどいるでしょうか。そもそも家制度が、戦後民法でずたずたになってしまっています。
 経済学の話になって恐縮ですが、「土地」「貨幣」「労働」すべてが商品として流通するのが自由主義経済です。それが、現代の新自由主義経済となって、極端になっている。土地は、とりあえず住む場所としてしか意味をなさず、投機の対象ともなります。貨幣(お金)も日本円から米ドル、ユーロなどあらゆるお金に交換でき、外貨貯蓄も盛んです。労働だって一昔前は、一生同一の会社に「奉公」するのが当たり前の時代から、トラバーユするのが当然。そんな時代思潮になっています。すべてがカジュアル(一時的な)ものになってしまったのです。
 少し行きすぎだとは思いませんか? 「私はこの町に生まれた。それは父がこの町に生まれたからだ。私の子もこの町に住むだろう」という言葉が、私は好きです。一時期定住社会という言葉が流行しましたが、現代は定住どころか、仕事がある場所に流浪する流民社会となっているのではないでしょうか。
 地域の様々な風習、制度は、江戸時代からはるか遠くなってしまいました。ただ、お寺の中、つまり様々な仏教儀礼は、鎌倉時代の文章をとなえ、安土桃山時代に成立した日常経典をあげるなど、そのまんま残っています。また、現代人にも心の奥底には、日本人特有の他界観(御先祖様を大切にするとか、死んだら極楽に行くとか…)があると疑いません。
 ある社会学者は「家名」「家産」などを大切にし継承していく伝統的家庭制度が終わった、と書きました。確かにそれは事実です。老人介護も、出産も病気療養もすべてが、お金を媒介として、家から外に出てしまいました。ただ、旧民法時代の大家族制度には、たとえば都会で食いつめた者を居候として、迎え入れるおおらかさがありました。ある種の福祉制度が大家族のなかにはありました。現在、家族は縮小の一途をたどっています。ただただ、私は自らのいのちの拠り所として、家族を大切にしてほしいと思っています。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 04:09 PM | comments (0) | trackback (0) |

寛容の教え

 シンクレティズム(syncretism)という言葉がある。「混交主義」と訳すのが一般的だ。教学上の見解を融合、和解させようという現象である。日本では平安時代以来、神と仏を融合させた本地垂迹説がそれにあたる。アジアの様々な神格を採り入れながら東漸し、日本にたどり着いた多神教たる仏教と、八百万の神と呼ばれるように、神話上、歴史上の人格、自然など様々なヒト、モノを神として祀った神道とが、混交しないわけがない。明治の国家政策としての廃仏毀釈までは、寺と神社が同じ境内にあることは珍しいことではなかった▼少し前、中東パレスティナの地を訪れた。同じ一神教であるイスラムとユダヤの衝突点である。「分離壁」といわれる巨大な壁が、二つの土地を分けようとしていた。唯一絶対的な人格神をいただく両宗教に、原理的に共生はあり得ない。そもそも、シンクレティズムなる言葉には、「無節操」「折衷」などの軽蔑的なニュアンスが含まれる。イスラエルは物理的な「壁」を建設して自らの信仰を守るしか方途はないと主張する。9.11に代表されるように、「文明の衝突」と言われて久しい。前世紀末からバルカン半島・中東に至る地域紛争、国家間戦争は、その大半が宗教戦争(紛争)だ▼仏教は、その始まりからして寛容の宗教である。他派の聖典であっても、その意味を容認する。各人の資質によって、様々な教えがあって良いとも説く。法然上人にもこんな言葉がある。「異学異解の人をえては、これを恭敬して、かろしめあなどる事なかれ」(津田三郎へつかわすご返事)。他宗派の教えを敬えとおっしゃっている。キリスト教に基盤を持つ欧米文明が衰退し、多種多様な文明が並立し始めるという21世紀、仏教の寛容の思想は重要性を増すと信じる(K)

| ポクポク木魚 | 09:00 AM | comments (0) | trackback (0) |

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