専称寺ご案内
寺だより「MOYAi」
ギャラリー三蔵堂
オフィス三蔵堂
専称寺墓地・納骨堂「光明殿」
永代供養墓「菩提樹陵」
お寺アクセス
お問い合わせは、mail@senshoji.jp へ
専称寺トップへ

CALENDAR

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30      
<前月 2018年04月 次月>

NEW ENTRIES

CATEGORIES

ARCHIVES

PROFILE

OTHER

www.senshoji.jp

<<次の記事 前の記事>>

健康幻想

 私にとって昨年度は大変な年だった。昨年6月、不安神経症で1ヶ月の入院、快癒してお施餓鬼、お盆の夏を乗り切ったかと思うと、今後は肩が上がらなくなって関節リウマチとの診断。今年3月には、写真撮影中に机から落っこちて、アキレス腱断裂、2週間入院。今はほぼ、足が少し不自由なだけで通常の生活を営めるようになった◆病院のベッドで考えた。この高齢時代、中年以降は何らかの病をもって生活するのが、当然のことではないか。我々はあまりにも健康幻想にとらわれているのではないか◆ある学者によると、人生の終末のある時期になると、人は食を摂らなくなるという。脳が「もう死んでいいよ」と命令を発しているそうな。最期は枯れ木のように往生するという◆健康幻想に支配されているから、人は病院で栄養剤の点滴など様々な生命維持のパイプにつながって死ぬ。私たちは、尊厳ある死を選択すべきではないか。枯れ木のようになって家族に別れを告げる尊厳死を選択すべきではないかと思う(住職)

| @Temple | 04:20 PM | comments (x) | trackback (x) |

静寂とやすらぎへ

 遠い昔、学生時代の話だ。宗教心理学か何かの授業で、W・ジェームズ『宗教的経験の諸相』を輪読した。私は彼の「回心論」に思いっきり、こけた。今、同書を読み返してみるとこうある。「それまで分裂していて、自分は間違っていて下等であり不幸であると意識していた自己が、宗教的な実在をしっかりつかまえた結果、統一されて優れており幸福であると意識するようになる」。
 「えっ、オレってどうなるのさ! オレって不幸、火を見たり光を見て神秘体験をすれば幸福になるっての?」。
 明治以降、キリスト教の「回心」(かいしん)が、仏教にも輸入されて「回心」(えしん)と読み替えられて、近代仏教学に取り入れられたことは知っている。しかし今、私は劇的な回心は全知全能の神をいだく一神教文明(ユダヤ・キリスト教、イスラム教)のなかでしか起こらない現象だと思う。神の生まれたシリア、ヨルダン、イスラエルを歩くといい。砂漠・荒野のなかにポツンとオアシスの街がある。砂漠にあるのは太陽と砂だけだ。一歩道を間違えれば死が待っている、そんな風土だ。そこで神と対話するには、よほど強い自我が必要だろう。その強固な自我の割れ目が、一神教の回心ではないか。
 現代社会、西欧一神教に淵源を持つ様々な思潮が、終焉を迎えようとしている。西欧の『旧約聖書』以来のキリスト教的世界観、自然は克服すべき対象であり、人間は神と対話できる強靱な自我を持つ「自立した個人」でなくてはならならず、人間は自然から超越した優秀な存在であり、人間以外のものは、人間にとっての道具である=人間中心主義(啓蒙主義)、こんな考えが終わりを迎えようとしている。さらにデカルト以来の合理主義、ニュートンらの科学至上主義、ウェーバーが分析した資本主義等々、これら強い自我によってもたらされた考え方の終わりの徴候が、3・11フクシマであり、9・11ニューヨークであり、9・15リーマンショックではなかったか。
 仏教は、森に生まれた。釈尊時代のガンジス川流域は、深い森に囲まれていた。森の多様性に、仏教は学んだ。大乗仏教は、長い時間をかけて、インド亜大陸、中央アジア、中国の神格を取り入れた。釈尊一仏の信仰と見える上座部仏教でも多数の土地神が摂取された。日本仏教に至っては、天台本覚思想(山川草木すべてに仏性を認める考え方)に影響を受け、また神仏混淆も進んだ。
 仏教に対する日本人の態度は、世界を超越しあれかこれかをせまる熱い「信仰」ではなく、世間のなかで様々なものを包摂しながら祈る安らかな「信心」ではないかと思う。仏教は「損か得か」「敵か味方か」など自我を強く持つことこそ人生における「苦」の原因と説く。仏教とは、自我をなるべく低くして、縁のおもむくままに生きる教え、特に苦しみを生み出す連鎖を、静寂とやすらぎへと転換する生活の作法ではないかと思う。

| @Temple | 04:09 PM | comments (0) | trackback (0) |

作法としての仏教

 日本仏教は、生活の作法、生活の型ではないかと、このごろしみじみ思う。キリスト教、イスラム教など一神教の信仰は、死を賭けて守るものだ。すべて日常は神とともにある。しかし、日本仏教は、様々な仏だけでなく、先祖信仰、山岳信仰などとの繋がり元にある。多神教の一つが仏教なのだ◆日本の伝統芸能は、「型」がすべてだ。基本的な型を何度も何度も本当に身につくまで繰り返す。知的な理解は、型・作法があって初めて付いてくる。多神教としての仏教もそうなのではないか。正月、節句、お盆、くんち(秋祭り)など年中行事に、父母に教わったとおりに、「祭り」を繰り返す。朝太陽を拝するものもいる。毎朝、仏壇に線香を上げ、南無阿弥陀仏と称える、こんな生活作法が、日々重なって、「信心」に育っていく◆日本はこれから長い成熟社会(成長無き社会)に入っていく。こんな時代だからこそ、森の神、海の神など八百万の神と共生してきた日本仏教の「静かな」教えが必要になってきているのではないか(住職)

| @Temple | 12:14 PM | comments (0) | trackback (0) |

交換から贈与へ

 3・11東日本大震災・東電福島原発事故から一年経った。震災以来、自らの心のなかに「一から考えなくては」との思いが募った。思想史、経済史の本を片っ端から読みあさった。学生のころに戻ったようだった◆15世紀のスペインの海洋制覇、オランダの時代を経て大英帝国が世界を制覇した。そして第一次大戦後、米国が覇権を握った。21世紀の今、アメリカが次第に衰退し、米ドル基軸体制いや近代そのもの、つまり合理主義、資本主義、啓蒙主義、科学万能主義が終焉を迎えつつある。ポストモダンの時代こそわれわれの時代だ、という。西欧の『旧約聖書』以来のキリスト教的世界観、自然は克服すべき対象であり、人間は神と対話できる強靱な自我を持つ「自立した個人」でなくてはならない、人間は自然から超越した優秀な存在であり人間以外のものは、人間にとっての道具である=人間中心主義(啓蒙主義)だというのだ。しかし、フクシマの爆発は、自然を制圧しようとした人間への警鐘ではなかったか。リーマンショックに代表される米国経済の崩壊は数式(近代そのもの)に過度に依存した果ての、暴走ではなかったか◆日本的な世界観では自然は恵みである。温暖な気候に生きる日本人は、自然に対し常に感謝を忘れない。時に、自然は、今回の大震災のように暴力をふるう。それでも、私たちは自然の恵みに生きていることを決して忘れない。自然からの「贈与」で生きている。これは決して近代経済の言う「交換」ではない。資本主義経済は、貨幣を媒介としてすべては「交換」で成立している。これから超高齢社会に向かう日本は、近代(市場万能)の先を常に見据えなくてはと思う。砂漠で生まれた一神教的世界ではなく、森で生まれた仏教など多神教の教えはますます重要となると確信する。(K) 

| @Temple | 04:01 PM | comments (0) | trackback (0) |

家族への回帰

 未曾有の大震災。震災の惨状に目を疑い、人間の力を遙かに超えた津波の猛威に驚き、科学技術の最先端と称された原発が、大量の放射能をふりまき、発生から半年以上も経っても避難生活者が今も存在する。この震災で多くの日本人が死と向かい合った。いままで考えもしなかった無数の人の死、自分の死を見つめ直す結果となった。死は非情に人間に襲いかかってくる。なぜその人が死んで自分が生きているのか、答えはない。だからこそ日本人は「死者」が生きようとしたことに応える生き方を選ぼうとしているのではないか◆生涯のパートナーを得ようとする人が増えている。都市部の女性を中心に、結婚相談所への相談が相次ぎ、大手相談所では対前年比25㌫増が続いているという。また婚約指輪の売上が、大手デパートで4割増という数字もある(朝日新聞)。来年あたりの国の調査で、婚姻率、出生率の上昇が見られるのではないかと想像する。また雑誌プレジデントの調査では、既婚者の七割(六九・二%)が「家族との時間が増えた」と解答、「より効率を重視して仕事をするようになった」(四五・〇%)「早く帰宅するようになった」(二五・八%)「自宅で夕食を取る機会が増えた」(三〇・六%)など◆伝統的家族への回帰ではないかと思う。これまで自分中心に物事を考えてきた人たちが、家族との繋がりを大事にし当たり前と思ってきたことに感謝するようになった。自分の人生にとって本当に大切なものはなにか、そんな自省が、家族へ回帰する原動力になったのではないか◆仏教の根本思想は「縁起」である。縁起とは、すべての「いのち」はひとつに結ばれ、共に生かし、生かされることである。家族と共に生きること、縁起の思想をふまえた「共生」こそ震災後のキーワードではないかと思う(K)

| @Temple | 04:00 PM | comments (0) | trackback (0) |

横難横死に

 東日本大震災で、日本人は二万数千人の死を共有した。戦後の混乱期以来という未曾有の災害だ。各地で、犠牲者、行方不明者の追悼の儀式が行われている。横難横死の人々に対し、一心に祈っている姿がマスコミでも紹介されている◆この悲惨な災害が、日本人の死生観、他界観に決定的な変化をもたらすのではないかと思う。だらだらとした日常のなかで、「生きていることのみ重要で、死は棚上げにして考えない」という日本人の風潮が変わる。延々と続くがれきのなかで、数多くの死を目の前に突きつけられ、死を常に考え、死とは何か、死とともに生きることを考え始めた。法然上人の時代も、戦乱に明け暮れ災害も頻発した。死が身近にあった時代だ。京都・祇園川のほとりに、死体が散乱していたという。そんな死が横溢していた時代に、上人は南無阿弥陀仏と申すすべての人の浄土往生を説いた。法然上人はこう記した◆「人が死ぬときのことなど、日ごろの考え通りにいくものではありません。往来で突然倒れて死んでしまうこともあれば、お手洗いで用を足している最中に死んでしまうこともあります。これまでの行いに端を発して、刀などで切られて命を失うこともあれば、火事のために、あるいは水におぼれて命を失うことも多くいます。しかし、たとえ、そういう死に方をしても、日ごろからお念仏を称え、極楽へ往生したいという心さえ持っている人ならば、今まさに息が絶えようとしているそのときに、阿弥陀さまは観音菩薩、や勢至菩薩と共にお迎えに来て下さると信じ、思い定めるべきです」(往生浄土用心)◆犠牲者に祈る日本人の意識に、震災の犠牲者が犬死にではなく、死後の安寧を求める思いが、胚胎し始めたのだ。往生を求める浄土観の復活の始まりだと思う。(K)

| @Temple | 03:58 PM | comments (0) | trackback (0) |

いのちの終わりに感謝

 人生の最後をどう迎えるか―そんな話題が、ここ数年、マスコミを賑わせるようになった。世間の潮流を作るといわれる団塊の世代が、高齢者の仲間入りを始めたからだろう。ついにというか、Jポップの世界でも、死とその別れをテーマにした曲が昨年、大ヒットした◆シンガーソングライター植村花菜(27)が歌う「トイレの神様」である。この曲は、小三から二十三歳ぐらいまでの「おばあちゃん」との交流とその別れを歌い上げたもので、ポップスの世界では異例の十分近い自伝的大曲である。昨年一月、FM局で流れ、即座に大反響を呼び起こし、三月にはアルバムにも収録され、植村さんはNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。小さなころ、祖母からトイレには女神様が住んで、いつもきれいにしたら「べっぴんさん」になれると教えられた。思春期になった彼女はおばあちゃんとぶつかり、そして上京し歌を歌い始めた。そのおばあちゃんが、入院していのちの終わりを迎えそうになった。見舞いした翌日、亡くなった。「恩返しもしてないのに いい孫じゃなかったのに」と悔やむ。◆人の死は、感謝である。仏教は「我」特に、執着、我執を否定し、人は縁に生きると教える。様々な絆、縁のなかで私たちは生かされていると教える。その縁、特に家族としての縁に感謝する場が葬儀である。むろん、弔いの儀式は、死者を追悼し、涅槃、特に西方浄土におもむかせる儀式である。しかし、本人にとっては自らの生、それを支えてくれた縁に感謝し最期を迎え、葬送の儀礼は参列者が、追悼の誠を捧げるとともに、個人とのご縁に感謝する「ありがとう」「さようなら」の儀式だと思う◆「トイレの神さま」の最後は「おばあちゃん ありがとう」の繰り返しで終わる(K)

| @Temple | 03:57 PM | comments (0) | trackback (0) |

伝統的家族への回帰

 ビジネスマンを主な読者とする経済週刊誌が、「介護・看取り、死、葬儀、寺、墓」など人生の終末期についての特集を組むことがめっきり増えた。高齢社会の反映なのか、読者層が厚い団塊の世代が喪主となるケースが増えているからなのか。様変わりである。しかし終末期の課題を、経済的な切り口だけで、捉えられるものだろうか。死に際し重要な要素として浮かび上がる家族の関係など貨幣には決して置換できない人の縁(関係性)、一人称としての人の死、これらは近代主義的な出発点を持つ経済学だけでは、決して把捉できない◆介護保険などによって外注化されたかに見える介護、イベントと化した葬儀、家族を前提とした墓制、これらのものが、このままのかたちで続くとは思わない。葬儀のイベント化に手を貸した寺や僧侶にも責任がある。ただ葬儀の前線にいる市井の僧侶として、四十九日の間続く中陰儀礼こそ、死を学ぶ絶好の場と理解している。法話・説法といういわば「上から目線」の場ではなく、故人の祭壇を前に、対話によって喪主やその家族と人の死を学びあえる場、そこに意味を見いだす。問わず語りの話にホトケとなった故人の生涯をうかがい、その最期を聴く◆この五月末、国立社会保障人口問題研究所が出した第四回全国家庭動向調査が家庭に対する意識変化を指摘している。「男の子は男の子らしく」「家庭の重要問題は父が決定」「夫が働き妻は専業主婦」。こうした伝統的な家庭像が肯定され始めているというのだ。団塊の世代が破壊したはずの伝統的家族が若い層を中心にここ二十年で初めて見直され始めたという◆中世、河原で死者を弔ったという「遊行聖、念仏聖」の歴史まで遡って、葬儀のあり方を検討しなくてはならないと思う。伝統的家族の復権が真実であればなおさらのことだ。(K)

| @Temple | 03:53 PM | comments (0) | trackback (0) |

極めて楽な世界

 宗教学者中沢新一によると、仏教のいう「極楽」とは「極めて楽な世界」なのだそうだ。この言葉で目からウロコが落ちた。そうか、仏教の根本命題「執着を捨てる」とは肩肘張って幸福になるためではなく、リラックスするためになのか。阿弥陀経、観無量寿経など極楽を詳細描写した経典を読むと、脱力系・癒し系の、あふれる光に水、かぐわしい香り、官能的な表現が続く。人生の究極の課題は、幸福になるためにではなく、楽になるためにある▼中沢先生によると日本仏教はアニミズム(霊魂信仰)なのだそうだ。ホトケという大きなものが私を包み込み、見守ってくれている、だからこのご恩に生きなくてはならないし、縁に生かされていることに感謝する。日本人が何千年と持っているアニミズム的性向と仏教の哲理が出会ってできた「縄文時代の仏教」だと中沢先生、なかなかしゃれたことを言う。▼あちこちで宗教がきな臭くなっている。これは、幸福になるための競争をしているのではないかなと思う。お互い、楽になるためにだったらもっと別な方途がいっぱいあったはずだ。原理に忠実であろうとすればするほど他との摩擦は激しくなる。BC3世紀、インドの仏教守護者アショカ王の言葉が碑文に残っている。「すべての宗教の根本となるものは、言葉を慎むこと―すなわち不適当な機会においてもっぱら自己の宗教を賞揚したり、他の宗教を非難しないこと、あるいはそれぞれの機会において穏和であるべきことである。」(「摩崖詔勅」)▼仏教はアジア世界において、土着の信仰と習合しながら、広まった。〈縁に生きる〉、〈共生する〉というのは、アンパンマンのように自らのいのちを与えてかたちを変えながら生きることではないか。肩の力を抜いて楽に生きることができればと切実に思う。(K)

| @Temple | 03:51 PM | comments (0) | trackback (0) |

無頓着な死

 親族の死に無関心な人々が増えている。葬祭に詳しい評論家の碑文谷創によると「家族である死者への関心が低く、死者への関心が遺族の間で希薄」な者たちが出現し始めているという。別れの場もなく葬儀もしないという「無意識的非葬式派」ともいうべき層が都市部で出現しているらしい。これまでも経済的な理由から葬式を出さずにすます者も、例外的だがいた。九〇年代半ばから増えつつあるのは、伝統的な家族の崩壊も手伝って、華美に流れる葬儀を嫌いごく近い親族だけで別れの場を設ける人々だ。古典楽曲を流し、花に飾られた死者と別れを演出する者もいる。しかし彼らは、家族の成員の死に対し積極的に関わろうとし、別れを直視する人々である。が、「葬式をすべきかどうか悩みもせず、葬式を出す動機を見いだせない」人々の出現は不気味だ▼この国では、母が子に際限のない暴力をふるい死に至らしめる、遺体をビニール袋に詰めてゴミに出す、子供が子供をビルから突き落とし殺す、そんなバブル期からの倫理大崩壊が、深く静かに進む。これら殺人者には実感を伴った死または死体のビジョンが欠落している。これら殺人を犯す人々と、無頓着に葬儀を忘れる人々は、死を棚上げにするという意味で通底しているのではないか、死が隔離され不可視になった時代の病ではないか、と思う▼施設で老い病院で病み死を迎え、そして斎場で葬儀を出しそのすべてが貨幣で決済されるという生老病死の外部化が、いのちの相を見えなくしている。家族と地域の崩壊が、これら病弊の進行に手を貸しているのは紛れもない事実だ。「わが耳に聞こえるほどの念仏」(法然上人)を称えながら最期を迎え、愛する家族、お世話になった隣人に送ってもらえたらと思うのは、筆者だけではあるまい。(K)

| @Temple | 03:50 PM | comments (0) | trackback (0) |

PAGE TOP ↑


Copylight(c) 2003 HOHNEN BUDDHISM SENSHOJI TEMPLE, SHUNKAI KAWASOE. All rights reserved.