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「こころくばり」の文化

 サブプライムローン問題に端を発したアメリカ発の世界恐慌が深く静かに進行している。資本主義のエンジンは「欲望」であるという。向上しようという意欲が、経済活動を活発にする。それによって、株式市場も活性化し、株式の価値も上がる。しかし、欲望に基礎を置く故に、不可避的に富に対する強欲(ごうよく)がはびこり、バブルを定期的に引き起こす。資本主義はバブルとの格闘の歴史ともいえる。現代は特に、金融や情報の技術が自己増殖し、人間の手でコントロールできない時代へと突入した。今回のバブル崩壊は、その点で傷が深い▼私たちは人と人との間を金に置き換えてはいないか? 経営者と社員の人の輪で成立した企業が、利潤優先の「鉄の檻」になっていないか?投資する資本家が、そんなに偉いのか? 浪費がそんなに楽しいのか? 結果として食品、賞味期限、耐震強度の偽装や、欠陥、失敗の隠蔽の連続。老舗から一流企業まで目を覆うばかりの強欲がひろがり、信頼の輪が喪われている。企業ばかりではない。年金崩壊、官製談合の政府、子どものいじめや自殺、モンスターペアレントになすすべがない学校。欲にまみれた相互不信が、この時代の基調音になってる▼「愛欲」「渇愛」「貪欲(どんよく)」「妄執(もうしゆう)」「煩悩(ぼんのう)」、これらはすべて仏典に起源を持つ言葉だ。仏教は人間の欲望の奥深さ(業(ごう))を知り抜いていたからこそ、欲望の質を細かく分析し、対象への執着(しゆうじやく)を否定する。過剰な物や心へのこだわりを捨ててこそ、信頼が生まれ、共感できる関係になるのではないか、と思う▼「共に生きる」社会は、心の施しができる共感のなかにこそ成り立つ。ぎらつく妄執を高度に制御したおもいやり、気くばり、心くばりの文化こそ、一千年をはるかに超す仏教思想に培われた日本人の心だと思う。(K)

| @Temple | 03:49 PM | comments (0) | trackback (0) |

「殺してはならない」

 「エンゲージド・ブディズム Engaged Buddhism」という欧米発の考え方が、日本でも流布してきた。標準的な訳語は「社会参加する仏教」だろうか。ある研究者は、「仏教が自らの存在意義を教団などの境界を乗りこえ、社会との関係において見直そうとしている活動」と定義する▼昨年十月末、東南アジア上座部仏教最大のミャンマーの僧侶が市民と共に、読経しながら行進し、軍政に対する異議をとなえた。ことし三月中旬、今度は中国・チベットで同じようにチベット仏教の僧侶が、中国共産党政権に抗議行動を起こした。自らの存在そのものを賭した命がけの行動である。いずれも徹底的な弾圧により無数の犠牲者が出て、数千人が拘束された。国家による報道統制にもかかわらず、ネット社会に流出した情報などから、動乱の実態が明らかになった▼ミャンマーにしろチベットにしろ僧侶たちは、世間(国家)の法に背いたかもしれない。しかし仏の法(ダルマ)に忠実だった。仏法にのみ従ったからこそ、世界の世論は、僧侶の行動を支援した。釈尊は言う。「人はすべて暴力におびえる。すペての者にとって生命は愛しい。わが身にひきあてて殺してはならない。殺させてはならない」(法句経130)。暴力装置としての国家に対峙し、超越する仏教の教えである。▼四月二十六日、善光寺は北京オリンピックの聖火の出発地を辞退した。その朝、日本の僧侶たちは、チベット暴動の犠牲者たちへ追悼の法要を行った。声明にこう書く。「今、心を澄ませて、犠牲になったお一人お一人に思いを馳せれば、その誰もが、暖かな体温と、豊かな心を待った、幸せを願う一人の人間であったことに気がつきます」。法要で可能な限り犠牲者の名を読み上げ弔った。仏教者の社会参加の原点は祈りだ。(K)

| @Temple | 03:48 PM | comments (0) | trackback (0) |

「財宝の乏(とも)しからんにも」

 「仏教(宗教)と経済は深くつながっている」と書くと、奇異に思われるだろうか? ものを生産し流通させ、売買し蓄財することと、ものごとを信じ慈しみあわれむこころのあり方とは、実は通底している。そう考えないと、グローバリズム経済の覇者ビル・ゲイツ(マイクロソフト会長)が資産の九五%(三百億ドル)を投じて慈善団体活動に専念するといい、その団体に資産額世界二位の大投資家ウォーレン・バフェットが、資産のほぼすべて(三百七十億ドル)を寄付したという事実は理解できない▼「仏教経済学」が世界に広まっているという(雑誌「選択」昨年十二月号)。検索サイト「グーグル」で「仏教経済」を調べると二百七十万件(同十二月末現在)も日本サイトだけでヒットする。また慶應大学で仏教経済学の講義が始まったといい、早稲田大政経学部では以前から仏教と経済倫理についての講座が開講されている▼米流グローバリズムと新自由主義経済が跋扈(ばつこ)した現代日本は、いのちの無視、貪欲、自利、浪費が幅をきかせ、人々は管理社会の中で日々、自らだけのための利益計算にいそしむ。仏教経済学はそんな潮流に竿をさす。仏教経典に本質的に内在する「生命尊重、知足、利他、持続性」などをキーワードに現代経済に反旗を翻す▼「今の人々は自分の利益のために交わりを結ぶ(中略)自分の利益のみ追求する人間はきたならしい。犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニパータ)。「今生の財宝の乏(とも)しからんにも、力を加えたもうべし(恵まれない人にも助力を惜しまないように)」(法然上人)。二千五百年前の釈尊、八百年前の法然上人のことばが現代に蘇る。あらゆる存在の共生が仏教の中心概念だ。「喜捨(きしや)」「知足(ちそく)」「簡素」の経済が世界に広がればと心から願う。(K)

| @Temple | 03:47 PM | comments (0) | trackback (0) |

仏壇は家族の絆である

 家の仏壇に手を合わせる。それはどんなとき? 毎朝、日々の無事を感謝して、元旦に家族全員の多幸を祈念して、さらには嫁ぐ日の朝、新生活の門出を御先祖様に報告に、大学受験の出陣式に……。仏壇は家族の歴史そのものだ、と思う▼仏壇をじっと見て欲しい。中心に阿弥陀如来の像、その下に亡き祖父母や両親ら先祖位牌、手前に花や供物、線香が並ぶ。実は世界的に見ると、この形態は非常に珍しい。キリスト教、イスラム教圏には、家庭には仏壇に類するものはない。人は祈りに教会、モスクに足を運ぶ。しかしそこにも、先祖の位牌はない。人は、花や香を介して、神やイエスと直接向かい合う。偶像崇拝を排するモスクには、もはや何もない。儒教には、先祖の依りしろとしての木主(ぼくしゅ=位牌に相当)があるだけ、インド仏教には仏像があるが逆に先祖を祀ることはしない▼欧米のキリスト教社会は、個人主義の伝統がある。個人主義が利己主義に陥らないのは、そこに神との契約があるからだ。自立、自己責任があり、その結果として自由がある。いわば放縦な自由とならないための「抑止力」としての神への信仰がある。戦後、日本社会は個人主義と家族主義のハイブリッド(混合)社会であった。家族の一人が大きな問題に逢着すると、それぞれがお互い様と助け合った。「御先祖様に申し訳ない」とのフレーズが、悪に走らぬ抑止効果をもたらした。ひるがえって現代、伝統的家族が崩壊しつつある。個人主義を通り越した利己的自我が増殖しつつある▼家族の絆を再生するために、よこしまな我執を増やさぬためには、仏壇に祈ることである。香を焚き、花をささげ、手を合わせることである。声に出して南無阿弥陀仏ととなえることである。子どもは祈る親の背中を見ているはずだ。(K)

| @Temple | 03:46 PM | comments (0) | trackback (0) |

死から生を見る

 介護保険制度が昨年、見直された。キーワードは「予防」。切迫する国の財政事情もあって、老人の自立をすすめる。高齢者のスローガンは「子どもに迷惑を掛けない」。医療技術の進歩で「死なない人」が増えた。アンチエージング(抗加齢)の技術の進展もあって、人生のセカンド・ステージを積極的にとらえようとする人が増えた。生命の自己決定などという個人主義の潮流もあり、いわば老いを拒絶する社会がやって来ている▼しかしちょっと待っていただきたい。「人間の死亡率は百㌫」(養老孟司)であることを忘れてはいないか? 私たちの時代は、老いの醜悪さから目をそらし、死をタブー化することによってのみ成立しているかのようだ。「老いない。老いさせない」社会を演出する一方で、実は老いも死も隠蔽されてはいないだろうか? 高齢者の数がピークを迎える二〇二五年には、認知症患者が現在の三倍、三百二十万人を超し、その三分の一が一人暮らし所帯となる(厚生労働省)。いずれは何らかの介護や支援が必要となってくる。現代人のほとんどは、誰かに「迷惑」をかけなくては終末期を迎えることができないのである▼法然上人は、死の床にある終末期の念仏者からの問いに答え「人の死の縁は、かねて思うにも叶い候わず。にわかに大路道にて、終わることも候。又大小便のところにて死ぬる人も候。前業遁れがたくて、たち刀にて命を失い、火に焼け、水に溺れて、命を亡くすたぐい多く」(『往生用心抄』)と死の非業のあることを説き「死の側から生を見る」視点を提供する▼元気な老人を楽しみ、自己演出することは必要であろう。しかし、人は老い、そして死ぬという事実を、身をもって子や孫に教示し老いの実相を家族に提示することも、高齢者の使命であると思う。

| @Temple | 03:44 PM | comments (0) | trackback (0) |

「生命教育」のツール

各地の定時制高校で「いのち」についての講話を続けている。たまに子どもたちの感想が、礼状と共に届くことがある。こんな文章が記されていた。「講演を聴いて『生まれるとき、赤ちゃんだけ泣いて、周りのみんなは笑っている。死ぬときは、周りのみんなが泣いて、自分ひとり笑っている。そういう風に生きなさい』といった母の言葉を思い出しました」▼何とすばらしいお母さんなんだろう、万巻の書にまさる母親の言葉なのだろうと思う。いわば偏差値敗者で、周りは不登校やリストカットに自殺未遂、そんないのちの揺らぎに直面することが多い高校に通う子どもだからこそ、こんなすごい反応をしたのだと思う▼中学校で「死の準備教育」を続けている友人に誘われて、小学五年生、中学二年生、看護学校生とともにいのちを学ぶワークショップに参加した。体育館に全員が集合し、八人程度のグループに分かれる。看護学生が司会し「今欲しいもの」「今したいこと」などをしゃべりあう。十五分ぐらいが経過して、司会役が「あと一ヶ月のいのちとお医者さんに言われたらどうする」と切り出す。ポカンとする小学生、「お金をいっぱい使う」という中学生、看護学生が自らが事故で死にそうになった体験を話し出した。ゆっくりとした時間が流れ「やはりお父さん、お母さんと居たい」と中学生が言う。生命の始めも終わりも、家族と共にあると、この中学生は実感したのかもしれない▼お葬式もお墓も実は、生命教育の見事なツール(道具)であることにお気づきだろうか。実体のある人の死に触れて初めて、子どもたちは、生の有り難さを思う。「神殺しの日本」(梅原猛)にあって、伝統的葬送儀礼や墓制が、いのちを見つめる場であり続けてほしいと思うのは筆者だけではあるまい。(K)

| @Temple | 03:42 PM | comments (0) | trackback (0) |

「家族再現」儀礼

国立人口問題研究所は、現在三十歳の未婚女性の半分、三十五歳未満の約七割が、生涯結婚せず未婚のまま一生を終えると推定する。女性の生涯未婚率は、近い将来一五%を超え、場合によっては二割を超すことも十分現実的だという。男女ともに五人に一人は一生独身という社会、これは家族の崩壊以外何ものでもないのではないか▼詩人で評論家の吉本隆明は新刊の家族論で「母親が(子育てに)『面倒だ』とか『厄介だ』という思いで赤ちゃんと接したとすれば、それこそ、もうあとになっては取り返しのつかない悪影響が出てしまう。『男女同権』の結果として生じた出生率の低下は、もっと重大に考えなければいけないことになる。これはお説教の意味は少しもない。事実の意味で触れているだけだ」(『家族のゆくえ』光文社)と警鐘を鳴らす▼一周忌、三回忌など伝統仏教が大切にしてきた年忌供養は「家族の再現」の儀礼だと思う。むろん、経をとなえ、香を焚き、花を供えて亡き家族の一員を追善供養する儀式ではある。しかしそれとともに、かつて故人と一緒に、兄弟姉妹として、また親と子、夫と妻として食卓を囲んだ家族、親族が再び集い、食を共にするという意味こそ、現代社会では重要なのだ。読経、法話をおえ、御斎(おとき)の席に着き、在りし日の食卓を再現する。調理の「火」を共有することが、家族という単位の条件であるならば、定期的にホトケとともに食し合う儀礼とは、連綿と続くいのちの連なりを確認し、家族の親和性を認め合う場であり、また亡き父母の面影を追い、ホトケの前で息子は父のように、娘は母のように生きることを学ぶ場なのだ。▼家族の崩壊に瀕するこの国で、いのちの連なりを再確認する場をもつことはとても大切だと思う。(K)

| @Temple | 03:41 PM | comments (0) | trackback (0) |

祈りの伝承

 家庭での食の崩壊が著しいという。子どもや若者に欠食、孤食が常態化した。スナック菓子の朝食、家族がそれぞれ別のコンビニ弁当を食べる夕食、こんな「異常」な食生活がはびこっているという。NHKによると家族そろって食べるはずの夕食よりも、学校での給食を「一番楽しみにしている」と答えた小学校五-六年生が四割近いのだそうだ▼食の変貌の背景には、家族の縮小という大きな社会的変動が存在しているから、やっかいだ。ことによると、仏壇、神棚のある家庭というのも、少数派に転落しているのではないか。「仏壇のある家はおじいちゃんの所」と感じる子どもが大半ではないか。食前の「いただきます」に始まって、幸福を希求する祈り、不安のなかで何ものかを求める心の底からの合掌、現代家庭のなかで子どもたちは、大人の祈りの姿を目撃することさえ、少なくなっている▼食の教育はまだいい。学校で教えることができる。しかし、宗教心をどう伝えたらいいのだろう。公教育で教えることは禁じられている(日本国憲法20条3)。元来、火と食を共有しながら、つまり囲炉裏やちゃぶ台の周りでこそ伝達、伝承されたいのちについての教えと学びを何にゆだねたらいいのだろう▼おじいちゃん、おばあちゃんがたへ、どうぞ年始のお墓参りにお孫さんを連れて行ってほしい。お正月にかわいい孫がやってきたら、年が改まることの清明さを教えてほしい。仏壇に手を合わせることの大切さを教えてほしい。先だった家族の横顔、家の歴史を伝えてほしい。人は「モノや情報」だけで生きていくと勘違いし始めたケータイ世代やその子どもたちに、いのちについての骨太のメッセージを伝えてほしい。いや、そうすることは、長年生きてきたものの責任だと思う。義務だと思う。(K)

| @Temple | 03:38 PM | comments (0) | trackback (0) |

家族の宗教

 「家の宗教」のなにが悪いのだろう?▼前世紀の後半、この国ではひたすら「個の確立」が求められてきた。自由な主体であるこの「私」の判断が最も大切と教えられてきた。「イエ=家族」や「ムラ=地域」の論理は、近代的自我にとっては桎梏であるとされた。宗教の世界でも西欧キリスト教をモデルとした、個人の信仰の必要性が叫ばれた。しかしどうだろう? この世には今、肥大した自我の亡霊たちがあちらこちらに出没していないか?▼有権者の歓心を買おうと、国家は返済不能なほどの借金を抱えた。自らの「判断」で死を選ぶものたち、家族を捨てる者たちが増えた。同居する家族の人数が激減し二人家族が主流となったあげく、家庭では際限のない暴力が繰り返され、ひ弱な少年たちは個室に引きこもった。修行と神秘体験を売り物にする妄想の宗教に、家族を捨て入信したものたちが暴走した▼もう一度言おう。家族の絆が弱まろうとしている現代こそ、家の宗教が必要なのではないか。五十歳以上の壮年世代、老年世代の定点観測を続けている博報堂生活総合研究所「HOPE レポート」は、「カギとなる人間関係は、『家族』が一番」と報告する。中高年世代にとって「楽しみとなる関係」は順に、自分の子ども、配偶者、兄弟(姉妹)、孫と続く。家族が拡散しようとも、縮小しようとも、いやそうであるからこそ、伝統的な家庭に居場所を求める意識が強まっている▼見えづらくなった家族のつながりを基礎付けしている装置が、亡き祖父母や父母を祀る仏壇やお墓だ。まもなく旧盆がやってくる。お盆はまぎれもない家族の儀礼だ。故郷に帰ろうと、海外で休暇を過ごそうと、自らが生きて過ごす場=家についてゆっくり考えていただけたらと思う。もしできるならば、仏壇の前で手を合わせて。(K)

| @Temple | 03:37 PM | comments (0) | trackback (x) |

「蝶」の往生

 ある人類学者は死を巡るこの国のかたちを「現代社会は、ごく近い将来自分が確実に死んでいくことを悟った人が抱く疎外感を解消するような、文化的な装置を失った」(『日本人の死のかたち』朝日新聞社刊)と指摘する。終末期における延命治療も「死なないことよりも大切なことがない」(同書)から続くのだという。他界観の衰弱を指摘する言説には事欠かない▼しかし本当に、現代日本人は諦めのなか成り行きまかせで不幸に死ぬのだろうか。大多数の日本人が祝福されてこの世に生まれるにもかかわらず…。キューブラー=ロス博士(1926-2004)は、死に至る心の変わりようとして五つの段階「否認と隔離」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」とした。そこで受けいれられる死とは現実世界との完全な分離であった。しかし五十歳代後半になって彼女は、主として子どもたちの死の臨床に立ち会い重大な立場の変更をする。死を迎える子どもたちが、「蝶」に身を託してこの世を去る事例の多さを語り、マユ(つまり肉体)を離脱するように死に行くという(『続・死の瞬間』)。つまり死に至る最期の段階に「希望」を置いたともいわれる。人生の最期に希望を刻印する科学者たる彼女の変化は、近代の死の観念が重大な転調を迎える象徴ではないかと思う▼私たちは戦後、近代の視点で人生を測ろうとした。生と死を考えようとしてきた。それは「智者のふるまいを」(一枚起請文)しすぎた行いではなかったか。福を呼び込もうとして飽くことなく個我を追求した果てに、究極の災いを請じ入れたのが、日本近代ではなかったか▼私たちは八百年来、「死」を「往生」と置換する巨大な歴史的装置を持っている。「はからいのない」往生を迎えることこそ、念仏信仰の核心である。(K)

| @Temple | 03:35 PM | comments (0) | trackback (0) |

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