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死は絶望ですか?

 人の死がタブーでなくなりつつあるのではないか、とつくづく思う▼終末期医療などさまざまな現代医学のタブーをつく漫画「ブラックジャックによろしく」(講談社、佐藤秀峰著)が、広範な若者に支持されている。主人公の若い研修医は、末期ガン患者を前にこう叫ぶ。「死とは一体なんですか?死とは敗北ですか? 死は絶望ですか? 死とは不幸で否定されるものでしかないのですか?」。抗ガン剤治療など医師としてぎりぎりの選択を続けながら主人公は死と共存する医療、ホスピス(ビハーラ)など終末期の死の心理的、身体的痛みを緩和するケア病棟を指向する。「生と向き合う事は死と向き合う事と同じ事ではないですか」「私たちは誰も独りなんかじゃない」。作者は主人公にこう言わせている。さらに少年たちに共感を得ている漫画がある。宮本武蔵に素材をとった「バガボンド」(講談社、井上雄彦著)だ。ここでは「潔く死ぬ」ことを美しいとする感性が蘇っているかのようだ。戦後、否定されたかに見えた武士道が、ここでは英雄視される▼戦後日本は戦中的な「死の美化」を克服したつもりで「実利の道」、つまり経済成長に突っ走った。そのアンチテーゼとして少年たちは死を語り始めているのだろうか。それとも徹底した聖俗分離と世俗化教育の結果、漫画というジャンルで自らの命と死の感触を確かめているのだろうか▼未曾有の高齢社会で死が露出した。伝統仏教の来世観が試される時代の到来だ。歴史的に寺の専権事項だった「葬送儀礼と墓制」に変化の兆しがある。「はからいのない死」という来世観再生のため、生と死をトータルにケアをしようという僧侶たちが出現している。死は悲しみではあるが不幸ではない。時代と対峙できる来世観の創出は、現代人そして宗教者にとってまったなしの課題である。(K)

| @Temple | 03:34 PM | comments (0) | trackback (0) |

リスキーな国家



 自殺が新聞で報道されることはまれだ。プライバシーの問題もあって、特異なケースでない限り、ニュースとして取り上げられることはない。しかしこの国では毎日、九十人近くの人々がいただいた生命を自ら終える▼厚生労働省の人口動態調査によると、平成十四年も自殺者数が三万二千人を超えた。平成十一年をピークに戦後最大の増加が続く。漸減している交通事故死者数の四倍、戦時下のイラクで民間人の年間死者数(NGO調査によると開戦後一年間の推定最大一万六百二十五人)の三倍だ。新聞やニュースショーが個々の自殺事例を報道しにくい事柄だけに、根は深い。ある国立研究所によると、男性の自殺者数が七割、特に五十歳代後半の男性自殺件数が人口十万人あたり七十二人と異様に多いと指摘する。働き盛りの憤死である。リストラ男性の自殺は、家族の成員の自殺を未然に防止するという機能も併せ持っていた伝統的家族が崩壊し、人と人とのつながりが薄くなったことと無関係ではあるまい。日本はメンタルな意味でリスキーな(危険な)国家になってしまった▼「生けらば念仏の功つもり、死ならば浄土にまいりなん」(「つねに仰せられける御詞」法然上人)。絶望の渕に放り出され、生活もにっちもさっちも行かなくなり、死の影に覆われそうになった経験を持つ方も多いだろう。そんななか「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」と祈りの日々を送った方々もいらっしゃるだろう。「念仏のなかに生き、いのち尽きたならばお浄土に参る。生死ともにわずらいのないいのちを生きる」。究極のお念仏の姿である。人と人とのつながりが薄れた現代にあって、念仏は最後のいのちの下支えなのではなかろうか。高齢社会になり死の影が横溢する現代社会にあって、念仏信仰の意義は深い。(K)

| @Temple | 03:34 PM | comments (0) | trackback (0) |

倫理大崩壊

 現代日本人の大半は、宗教教育・道徳教育を満足に受けていない。戦後教育では道徳という科目はあっても、有名無実化した時期が長かった。道徳も宗教も公の空間である学校で教えてはいけないものだった。なぜ人を殺していけないか、戦争で人を殺すのと殺人はどう違うのか、この問いに説得力を持って答えきれる教師はどれだけいるのだろう▼ここ十五年ぐらいの倫理崩壊現象は目を覆うばかりだ。子供が子供を殺し、小学校では大量殺人、一家全員殺害もたびたび報道される。経済的な繁栄を勝ち取り、世界一の経済システムと持ち上げられてわずか十数年、世紀末日本に「倫理大崩壊」ともいうべき「こころの廃退」が静かに進行していた。マックス・ウエーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、目的の合理性のみが追求される官僚的近代社会、「脱呪術化」され「非合理」を周縁に追いやった近代社会を「鉄の檻」と形容し、強い警鐘を鳴らした。「いかに生きるべきか」「人間とは何なのか」という存在についての問い、そこから出発する宗教、信仰は非合理であり、それは「公」の領域からは追放されるべきものとされ、「私」に幽閉された。そんな公空間での近代「無宗教」の結果が、このざまではないか▼仏教が空前のブームだという(雑誌「AERA」2003.10.27朝日新聞社)。会社からは冷たくされ、依るべき共同体であったイエもムラもいつの間にか崩壊して、アメリカ流競争社会に知らず知らず変貌していた。内面の厳しさを知らず、甘えに浸っていた日本人が戦後初めて直面する存在をかけての問いに、仏教は多様なメニューを用意する▼この国のかたちと宗教の関わりももう一度、根本から考え直す時期が確かに今、到来しているのではないかと思う(K)

| @Temple | 03:32 PM | comments (0) | trackback (0) |

死のレッスン

 死について学ぶ市民講座を主宰した。大きな反響が帰ってきた。連続講座は会場から人があふれた。集まった人々とって「死」の問題は、とても切実なものだった。世の人々は死に関しての難問を山ほど抱えていた◆死の問題はこれまで長い間、血縁、地縁という共同性のなかで解決されてきた。多世代同居によって家族の老いの苦しみや死の不条理をわがこととして学習した。家の継承という制度で、自らの死後の居場所を確保し、凶暴だった「死」を手なずけ安らかなものにしてきた。また地域共同体は、地域の葬送を共に担うことによって、縁あって同じ空間に住む成員相互の別れを制度化した。村はずれの墓地に葬られ共に極楽に往くという共同幻想を創出した。それだけではない。家族は「おまえ死ぬなよ」「一緒に生きていこうよ」という生への共同性をも持っていたはずだ◆そんな家族や地域は今、瀕死の状態だ。伝統的家族観の崩壊が進む。少子化だけでなく、結婚しない人々が増えた。非婚化現象である。離婚率の増加、多世代同居が激減し、単独世帯が増殖している。子供たちは食事を独りで食べ(「孤食」という言葉をご存じだろうか)、老人も介護の社会化のかけ声のもと同居家族の成員であることをやめつつある。地域の疲弊はもっと激しい。かくて「死」を下支えしていた縁の連なりが毀損され、死が不可解なものとして現代人の前に放り出された◆臨済の僧一休宗純(一三九四~一四八一)は京の都にドクロを掲げて死の実相を説いた。あらためて寺は「死のレッスン」の場だと思う。寺で人は死を学び、死を悟る。葬送の場で人は血の連なりを実感し、共に祈る。人は縁に生きながらも、「独り去って独り来る」ことを悟るのだ。(K)

| @Temple | 03:31 PM | comments (0) | trackback (0) |

声が切り拓く

 愛犬が事故で死んだ。畑のすみに埋葬した。線香と花を手向け、簡単な経を読んだ。涙が出てきた。犬小屋を撤収する気になれない。まだ傷から癒えていない。翌日、定期の健康診断の際に提出していた大腸ガン検査で「要検査」の通知が来た。まさかとは思うものの、気にはなる。ペットの突然の死と、自らのほんのかすかな死の影。死について考えていた。大量の「死」の時代がやってくる。厚生労働省の推計によると、現在約百万人の死亡者数が、二〇三〇年代半ばには、年間百七十五万人という数にのぼる。◆地方の村での通夜に出向くと、とむらいの座敷が念仏の声で充ち満ちることがよくある。故人をよく知る村人が声を出す。遺族もそれにつられて手を合わせる。悲しみにふける遺族にとって、縁者に囲まれ共に祈る行為は、声が切り拓く究極の「慰め」ではないか。村人の念仏の声は、決して死に対する論理的な到達ではない。何百年と伝承してきた儀礼、その力が悲しみをいやす装置になっている。村人の習俗から切れた都市は、死の暴力性に対して、大量死の時代にどう対処するのだろう。オウム事件以降、熱狂的信仰を排除しがちな現代人は、どう自らの死を理解し、どう祈るのだろう◆ホスピス活動を続けるある医師は「死を最後の不幸にしてはいけない」と主張する。死は必然である。死が不幸であるとすれば、生は悲惨であろう。新しい時代の行動様式と響きあう「来世観」とは何なのだろう。「極楽往生」という死のかたちに「智者のふるまい」をしてはいけない。突如やってくる死に理を問うてはいけない。縁に連なるもの同士の、共に祈る念仏の声に大いなる慰めがあるはずだ。悲しみと絶望のなかで、口をついて出てくる原初の祈りの声、そこに端緒があるはずだ(K)

| @Temple | 03:30 PM | comments (0) | trackback (0) |

死の希望

 日本人の寿命が延びた。高齢社会もすぐそこまで来ている。死についての論議が盛んだ。死についての学問の古典ともいうべき『死の瞬間』(原著は一九六九年刊)の著者キューブラー・ロスは、死に至る心の段階を六つに分けた。「この私が死ぬわけがない」という否認(隔離)に始まり、怒り(何で私だけが)、取り引き(何でもするから助けて)、抑鬱(だめだ)、受容(仕方がない)を経て最期の心の状態に「希望」をおいた◆京大教授で宗教学のカール・ベッカーは、最終的に「生死の意味を求める存在」が人なのだという。人生のラスト・ステージで人はなにものかとつながりを求め、自分なりの意味を創造しようとするという。彼は、研究の積み重ねのうえに、死後の存在を否定するだけの態度は学問としても「幼稚である」と断言する。古来、来世を考えない宗教はきわめてまれである。浄土教と呼ばれる東アジアの仏教各派はいわば、死についての思索の専門店だ。お彼岸の中日に太陽が沈む方角のずっと向こうに極楽が存在する。生と死は「希望」によってつながっている◆芥川賞作家で禅僧の玄侑宗久は、僧侶を主人公にして「死」や「葬」をテーマとする小説を精力的に発表している。受賞作『中陰の花』は生と死の間の柔らかな心の揺らぎにふれて、絶賛を博した。デビュー作『水の舳先』では、末期ガン患者を題材として、生命の根元である水をモチーフに用いながら、来世への希望を描いた。その彼が再度、生の彼岸の物語を書き終えたと聞いた。題して「アミターバ-無量光明」(仮題)。「無限の存在をもう一度感じ取ってほしい」と言う。アミターバとは、いうまでもなくインド古代の言葉で無限の光の仏さま(阿弥陀仏)だ。新作は文芸誌「新潮」十一月号に発表される。(K)

| @Temple | 03:28 PM | comments (0) | trackback (0) |

「非縁社会」

 伝統的な日本人の家族観が、崩壊寸前だ。一月末に国立社会保障・人口問題研究所が将来推定人口を下方修正して話題になった。曰く「四年後に人口は減少し始める」「女性の晩婚化に加えて結婚しても子どもをつくらない夫婦が増えている」▼人口動態変化の最大の原因は、少子化、高齢化の進行だが、もう一つの不気味な変化が進みつつある。生涯独身で過ごす傾向、つまり「大独身時代」の到来である。同時に発表された平成十二年国勢調査速報によると、三十代前半男子の未婚率は四二・九%、同後半でも二五・七%、それぞれ二〇年前の二・〇倍、三・〇倍に急増している。嫁不足に悩むのは地方の農家ばかりではない。非婚傾向はこの国の新たなかたちなのだ▼戦後、日本映画の文法を決定づけたといわれる名匠小津安二郎は、食事の風景を、映像中央の卓袱台の左に一家の主、右に主婦、中央に子供たちとし、食卓の向こうには縁側をおいた。高度成長期まで「寅さん」、「時間ですよ」など日本のホームドラマはその構造を周到に受け継いだ。一九八三年映画「家族ゲーム」で監督森田芳光は、親子横一線に並んだ食事の光景を描き、対話無き家族の肖像として衝撃を与えた。九八年にNHKが二千五百人の児童を対象に食事の風景の絵を描かせた。なんと三分の一が独りで食べる構図だった。「孤食」現象だ。昨秋発表された村上龍の小説『最後の家族』には個室に引き籠もって視線もあわせない青年が登場する。血の縁を拒否する「非縁」の時代が到来したのだろうか▼仏教の教えは縁(縁起)が基本だ。世界を関係性として説く。華道の世界には草木の縁を切ってはいけないという掟があるそうだ。「縁を切ってはいけない。無縁の場に生きていいのか」そんなメッセージがお釈迦さまの深い智慧に内在している。(K)

| @Temple | 03:23 PM | comments (0) | trackback (0) |

文明の衝突


 二十二世紀の歴史家は、現代のテロリストに対する戦争を「文明の衝突」時代の始まりと記すのかもしれない。二十世紀を覆っていたイデオロギーによる東西対立が終焉を迎え、「人のアイデンティティーの根本となる言語や文化、そして宗教の違いが、この世紀の世界秩序を生み出す最大要因となった」と。つい先ほどまで米国が声高に叫んでいた「グローバリズム」がテロの一撃でバブルのように消え去ってしまったように、西欧キリスト教文明が生んだ「近代」の普遍性も否定され、血によって贖われてきた宗教戦争の時代が再来するのだろうか?▼イスラエルなどユダヤの民が信じるエホバの神と、キリスト教の神、そしてイスラムのアッラーの神、この三つの宗教の神さまが、同じ神さまだったことをご存じだろうか? 神について記す旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教が共有する。イスラム教徒は預言者ムハンマドとその聖典コーランだけを唯一絶対と信仰するのではなく、ユダヤ教の「律法」、キリスト教の「福音書」をも尊重する。言うまでもないことだが、イスラム教徒にとっても最初の人類はアダムとイブなのだ▼インド古代仏教を集大成したアショカ王(BC268?-232?)の言葉を、今こそ味わってほしい。「すべての宗教の(中略)根本となるものは、言葉を慎むこと―すなわち不適当な機会においてもっぱら自己の宗教を賞揚したり、他の宗教を非難しないこと、あるいはそれぞれの機会において穏和であるべきことである。それだからこそ、各自は互いにそれぞれの仕方によって、他の宗教を尊敬すべきである」(「摩崖詔勅」)▼「縁」に依って生き、他を認め許しあう「共生」の思想こそ、この時代、アジアの仏教徒が世界に自信を持って発言できることではないか。(K)

| @Temple | 03:21 PM | comments (0) | trackback (0) |

憲法二十条

 日本社会のアメリカ指向がますます強まっている。政治的従属だけでなく、「グローバル・スタンダード」「自己責任」という名のアメリカ流経済もしかり。しかし、かの国は、強烈な宗教国家だという側面はなぜか報道されない。テレビ伝道師の社会に与える影響は大きく、教会のミサの出席率は決して衰えていない。上昇志向の人々にとっては、より上の階級の教会に所属することが、みずからのアイデンティティーになっている。「世界の警察官」という心性も宗教とは無縁ではない。離婚率の増加による家族の崩壊など負の側面を、プロテスタントを中心とする宗教は底辺で支えている▼ひるがえって、日本人は宗教を知らなさすぎる。「神の国」発言でひんしゅくを買った森前首相は、小渕元首相の葬儀で「あなたは天国に召された」と呼びかけた。公人として諸宗教に配慮するなら「あの世」とでもすべきだし、仏教の儀礼に従うなら「極楽」というのがすじだ。先日、インドネシアの日系食品企業の日本人幹部が逮捕されたというニュースが流れた。圧倒的なシェアを持つ商品の調味料に、イスラム社会ではタブーの豚肉の成分を混入させたという疑いだ。宗教上の禁忌の厳格さを情報として知っていたならば、未然に防げたはずだ▼憲法二十条は「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。しかしこれは宗派教育で宗教一般ではないはずだ。「いただきます」「ごちそうさま」の言葉さえ小学校で教えない地域があるという。世界の様々な宗教の情報だけでなく「みずからの絶望や死をどう引き受けるか」という人としての基本さえ学校では誰も教えはしない▼心が凍り付くような少年犯罪の多発が、宗教不在の「戦後教育」の成果でなければいいのだが。(K)

| @Temple | 03:20 PM | comments (0) | trackback (0) |

慈悲と縁


 日本は借金大国なのだそうだ。本年度予算ベースで、国と各自治体の長期債務残高、つまり借金は六七四兆円、乳児から高齢者まで全人口で割ると一人あたりの借金は五一〇万円、四人家族だと一家の負債額は二千万円を超してしまう。戦費に財政をつぎ込んだ昭和十年代後半以来、借金の総額が国内総生産(GDP)を、初めて上回るという未曾有の事態だという。何が日本をそうさせたのだろうか▼二〇世紀、日本人は途方もない快適な社会を作り上げた。街は清潔で、建物も道路も新しい。しかし本当に幸せなのだろうか。借金体質のばらまき型予算が、日本人のこころを少しずつむしばんではいないか。すべてをお金で換算する無理がたたり始めてはいないだろうか。出産、子育てと教育、高齢者介護、環境とまちづくり、今世紀の課題とされる問題のどれをとっても、ばらまきのお金を積んですべて解決する問題ではない。人生とその環境は所詮お金で買えるものではない▼二一世紀を迎えるにあたり、日本人はいかに生きるべきか、どう働き、どう暮らすべきなのか。その処方箋がおぼろげだが、欧州の国々を手本に見えてきた。キーワードは、ボランティアとコミュニティ。従来の経済活動の範疇からはみ出る、人のこころと直結する人間の行為だ▼自発的な慈悲の行い(ボランティア)であれ、人と人との縁づくり(コミュニティ)であれ、日本仏教が千年を超す時をかけて熟成した考え方の基本だ。浄土宗は二一世紀の劈頭にあたり、宣言文を出した。曰く「愚者の自覚をもって、仏の慈しみある家庭、社会、そして共生の世界を」と。「慈悲と縁」。新しい世紀を創造するために日本人に求められる生き方は、法然仏教の教えそのものだ。時代が仏教に追いついてきた。(K)

| @Temple | 03:13 PM | comments (0) | trackback (0) |

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