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声が切り拓く

 愛犬が事故で死んだ。畑のすみに埋葬した。線香と花を手向け、簡単な経を読んだ。涙が出てきた。犬小屋を撤収する気になれない。まだ傷から癒えていない。翌日、定期の健康診断の際に提出していた大腸ガン検査で「要検査」の通知が来た。まさかとは思うものの、気にはなる。ペットの突然の死と、自らのほんのかすかな死の影。死について考えていた。大量の「死」の時代がやってくる。厚生労働省の推計によると、現在約百万人の死亡者数が、二〇三〇年代半ばには、年間百七十五万人という数にのぼる。◆地方の村での通夜に出向くと、とむらいの座敷が念仏の声で充ち満ちることがよくある。故人をよく知る村人が声を出す。遺族もそれにつられて手を合わせる。悲しみにふける遺族にとって、縁者に囲まれ共に祈る行為は、声が切り拓く究極の「慰め」ではないか。村人の念仏の声は、決して死に対する論理的な到達ではない。何百年と伝承してきた儀礼、その力が悲しみをいやす装置になっている。村人の習俗から切れた都市は、死の暴力性に対して、大量死の時代にどう対処するのだろう。オウム事件以降、熱狂的信仰を排除しがちな現代人は、どう自らの死を理解し、どう祈るのだろう◆ホスピス活動を続けるある医師は「死を最後の不幸にしてはいけない」と主張する。死は必然である。死が不幸であるとすれば、生は悲惨であろう。新しい時代の行動様式と響きあう「来世観」とは何なのだろう。「極楽往生」という死のかたちに「智者のふるまい」をしてはいけない。突如やってくる死に理を問うてはいけない。縁に連なるもの同士の、共に祈る念仏の声に大いなる慰めがあるはずだ。悲しみと絶望のなかで、口をついて出てくる原初の祈りの声、そこに端緒があるはずだ(K)

| @Temple | 03:30 PM | comments (0) | trackback (0) |

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