専称寺ご案内
寺だより「MOYAi」
ギャラリー三蔵堂
オフィス三蔵堂
専称寺墓地・納骨堂「光明殿」
永代供養墓「菩提樹陵」
お寺アクセス
お問い合わせは、mail@senshoji.jp へ
専称寺トップへ

CALENDAR

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30      
<前月 2018年04月 次月>

NEW ENTRIES

CATEGORIES

ARCHIVES

PROFILE

OTHER

www.senshoji.jp

<<次の記事 前の記事>>

静寂とやすらぎへ

 遠い昔、学生時代の話だ。宗教心理学か何かの授業で、W・ジェームズ『宗教的経験の諸相』を輪読した。私は彼の「回心論」に思いっきり、こけた。今、同書を読み返してみるとこうある。「それまで分裂していて、自分は間違っていて下等であり不幸であると意識していた自己が、宗教的な実在をしっかりつかまえた結果、統一されて優れており幸福であると意識するようになる」。
 「えっ、オレってどうなるのさ! オレって不幸、火を見たり光を見て神秘体験をすれば幸福になるっての?」。
 明治以降、キリスト教の「回心」(かいしん)が、仏教にも輸入されて「回心」(えしん)と読み替えられて、近代仏教学に取り入れられたことは知っている。しかし今、私は劇的な回心は全知全能の神をいだく一神教文明(ユダヤ・キリスト教、イスラム教)のなかでしか起こらない現象だと思う。神の生まれたシリア、ヨルダン、イスラエルを歩くといい。砂漠・荒野のなかにポツンとオアシスの街がある。砂漠にあるのは太陽と砂だけだ。一歩道を間違えれば死が待っている、そんな風土だ。そこで神と対話するには、よほど強い自我が必要だろう。その強固な自我の割れ目が、一神教の回心ではないか。
 現代社会、西欧一神教に淵源を持つ様々な思潮が、終焉を迎えようとしている。西欧の『旧約聖書』以来のキリスト教的世界観、自然は克服すべき対象であり、人間は神と対話できる強靱な自我を持つ「自立した個人」でなくてはならならず、人間は自然から超越した優秀な存在であり、人間以外のものは、人間にとっての道具である=人間中心主義(啓蒙主義)、こんな考えが終わりを迎えようとしている。さらにデカルト以来の合理主義、ニュートンらの科学至上主義、ウェーバーが分析した資本主義等々、これら強い自我によってもたらされた考え方の終わりの徴候が、3・11フクシマであり、9・11ニューヨークであり、9・15リーマンショックではなかったか。
 仏教は、森に生まれた。釈尊時代のガンジス川流域は、深い森に囲まれていた。森の多様性に、仏教は学んだ。大乗仏教は、長い時間をかけて、インド亜大陸、中央アジア、中国の神格を取り入れた。釈尊一仏の信仰と見える上座部仏教でも多数の土地神が摂取された。日本仏教に至っては、天台本覚思想(山川草木すべてに仏性を認める考え方)に影響を受け、また神仏混淆も進んだ。
 仏教に対する日本人の態度は、世界を超越しあれかこれかをせまる熱い「信仰」ではなく、世間のなかで様々なものを包摂しながら祈る安らかな「信心」ではないかと思う。仏教は「損か得か」「敵か味方か」など自我を強く持つことこそ人生における「苦」の原因と説く。仏教とは、自我をなるべく低くして、縁のおもむくままに生きる教え、特に苦しみを生み出す連鎖を、静寂とやすらぎへと転換する生活の作法ではないかと思う。

| @Temple | 04:09 PM | comments (0) | trackback (0) |

コメント

コメントする








この記事のトラックバックURL

http://senshoji.jp/senshoji/blog/tb.php/74

トラックバック

PAGE TOP ↑


Copylight(c) 2003 HOHNEN BUDDHISM SENSHOJI TEMPLE, SHUNKAI KAWASOE. All rights reserved.