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ポクポク木魚No.29 お葬式なんて要らない??

ポクポク木魚

お葬式なんて要らない??

 宗教学者島田裕巳さんの新書「お葬式は、要らない」(幻冬舎)が売れているそうですね。ボクも読んでみました。そうかなぁ、お葬式は要らないのかなぁ……。幻冬舎らしいセンセーショナルなタイトルで驚かされるけど、実はこの本、ちゃんとした野辺の送り(お葬式)をしなさいといっているようにもとれる内容でした。島田さんとは、ある雑誌のインタビュアーとして、二度ほどお目にかかったことがあります。また大学の友人の高校の同級生というご縁で、共通の知人もいるみたいですが。

 さて、現代のお葬式、ボクも少しは変わった方がいいと思っている一人です。難しいことですが、亡くなった人に向かって、作法とおりのお経をあげてハイおしまいでは、遺族の方々の悲しみも、決して癒えることはないと思います。亡くなった方の数十年の人生をどう顕彰するか、それがお葬式の要素でもあると思います。あまりにがっちりとしたお葬式の作法や、遺族の方のかたち通りにお願いしますという意向でで、ボクもなかなか新しいかたちを模索できなくて、悲しいのですが……。いつかは、生前から葬式はこうすると話し合ってみて、遺族もまたご本人も満足する(??)葬儀をしてみたいと思います。

 あと島田さんが指摘しているのは、戒名のことですね。お葬式ではじめて、戒名をおつけして、仏道に精進した証とするのもやはりちょっと無理があるなぁと昔から思っています。でも専称寺では、生きているうちに修行をして戒名をお授けする儀式を戦前からずっと執り行っているのをご存じですか。「五重相伝」(ごじゅうそうでん)という十年に一度ほど専称寺で開催している大法要です。

 この法要は、五日間、お寺に朝八時から夕五時まで毎日、法話を聞き、一日五回法要に連なり、お念仏を何度も何度もお唱えして、仏教の初歩、法然上人の教えを聞く修行の場です。まぁお手伝いの僧侶も十人以上で、入行のみなさまのお世話をし、食事の時も「食作法」という言葉を唱和し、南無阿弥陀仏を十遍となえてからやっと食事という、現代人にはちょっと窮屈な儀式です。でもそんな大変な修行をするからこそ、仏道に励んだという証になるのです。五日間の修行を終えて、最後に「伝巻」という巻物をいただき、そこに「○譽○○」という名が書いてあります。それが、その方の戒名です。生きているうちに修行してはじめて、戒名をいただく、それが「正しい」あり方なのです。忙しい現代人には、すこしハードルが高いのですが、リタイアしてから、お寺に五日間こもって、戒名をいただくのも、自らの「最期」を予期し、準備するという意味で、とてもすばらしいと思うのですがいかがでしょう。

 次回の「五重相伝」は平成二十六年、四年後の予定です。案内を差し上げますので、ぜひトライしてみてください(住職独白)

| ポクポク木魚 | 04:54 PM | comments (0) | trackback (0) |

ポクポク木魚no 28 多久で ミュージカルをするぞ!

ポクポク木魚no 28

多久で
ミュージカルをするぞ!

 

 多久で、全編オリジナルの「ミュージカルをやるぜっ」という話が進行中です。オリジナル脚本、オリジナル曲、出演者も公募でという本格舞台です。専称寺のギャラリー三蔵堂で、制作会議を重ねています。スタッフの一員として参加しておりますが、多久の田舎でこんなミュージカルの制作ができるとは、ワクワクドキドキの日々です。十一月の公演にご期待ください。

 制作主体は、多久で生涯学習を担うボランティア団体「多久市民大学ゆい工房」。多久中央公民館長を務める川内丸信吾さんを中心に「ゆい工房」のスタッフが総務部門として、活動を始めました。

 ひと言でミュージカルの制作といっても、脚本、演出、ダンス、音楽、照明、音響、大道具、小道具、衣装などなど、さまざまな要素を一つに統合しなくてはなりません。それに、出演者が集まってくれるか、それにチケット販売ができるのだろうか、予算管理はどうするか、難問山積でした。わずか人口二万人ちょっとの多久市でできるとは思ってもみなかったのです。

 総合プロデュースに、アメリカで演劇方法論を学んだ多久在住の青柳達也さん、作曲・音楽プロデュースは佐賀市で音楽活動をしている弓削田健介さん、ダンス指導、舞台美術指導も佐賀市で演劇活動をしているスタッフがそろいました。歌唱指導のインストラクターには、市内の音楽教諭などボランティアで参加してくれました。

 六月には、出演者の公募を行ったところ、小学生から大人まで五十人近い応募があり、毎週週末には歌唱、ダンスの基礎訓練が始まっています。原作脚本もオリジナルで、西多久の「女山盗賊」の説話をもとに書き下ろし、タイトルも「赤い橋―峠の盗賊」と決定しました。寺のギャラリー三蔵堂に、制作スタッフが集い、会議を進めていますが、話に参加するだけでワクワク感が広がります。

 七月中には、最終脚本も曲もあがり、配役も決定して本格的な練習が始まります。公演は十一月七日多久中央公民館ホールでの二回公演。五百五十人収容のホールをいっぱいにできるか、そして何よりもみなさまと感動を共有できるか、これを読んでくださっているあなたも是非、見に来てくださいね!(住職独白)

| ポクポク木魚 | 04:51 PM | comments (0) | trackback (0) |

伝統的家族への回帰

 ビジネスマンを主な読者とする経済週刊誌が、「介護・看取り、死、葬儀、寺、墓」など人生の終末期についての特集を組むことがめっきり増えた。高齢社会の反映なのか、読者層が厚い団塊の世代が喪主となるケースが増えているからなのか。様変わりである。しかし終末期の課題を、経済的な切り口だけで、捉えられるものだろうか。死に際し重要な要素として浮かび上がる家族の関係など貨幣には決して置換できない人の縁(関係性)、一人称としての人の死、これらは近代主義的な出発点を持つ経済学だけでは、決して把捉できない◆介護保険などによって外注化されたかに見える介護、イベントと化した葬儀、家族を前提とした墓制、これらのものが、このままのかたちで続くとは思わない。葬儀のイベント化に手を貸した寺や僧侶にも責任がある。ただ葬儀の前線にいる市井の僧侶として、四十九日の間続く中陰儀礼こそ、死を学ぶ絶好の場と理解している。法話・説法といういわば「上から目線」の場ではなく、故人の祭壇を前に、対話によって喪主やその家族と人の死を学びあえる場、そこに意味を見いだす。問わず語りの話にホトケとなった故人の生涯をうかがい、その最期を聴く◆この五月末、国立社会保障人口問題研究所が出した第四回全国家庭動向調査が家庭に対する意識変化を指摘している。「男の子は男の子らしく」「家庭の重要問題は父が決定」「夫が働き妻は専業主婦」。こうした伝統的な家庭像が肯定され始めているというのだ。団塊の世代が破壊したはずの伝統的家族が若い層を中心にここ二十年で初めて見直され始めたという◆中世、河原で死者を弔ったという「遊行聖、念仏聖」の歴史まで遡って、葬儀のあり方を検討しなくてはならないと思う。伝統的家族の復権が真実であればなおさらのことだ。(K)

| @Temple | 03:53 PM | comments (0) | trackback (0) |

ポクポク木魚 No.27 カトリックの総本山に 行っちゃった!

ポクポク木魚


カトリックの総本山に
行っちゃった!


 キリスト教に、つまりカトリックとプロテスタントがあるのはご存じですよね。昔、世界史でルターの宗教改革という言葉を習いましたよね。ルターとかカルビンとかの人名を覚えていらっしゃいますよね。「堕落した」教会の改革で、分離したのがプロテスタント(ドイツとか北アメリカが多い)、ローマ帝国に残ったのがカトリックです。その後、西方教会諸派と分離したとはいえ、その後千年以上にわたってずっと、カトリックの本山はローマ市内にある独立国バチカンなのです。今でもスペイン、フランス、南米などラテン世界には絶大なる力を持っています。単一の宗教団体では当然世界一です。そのトップローマ教皇は、世界のキリスト者には超越的存在なのです。

 そのバチカンに縁あって行ってきました。浄土宗の平和団体「浄土宗平和協会」の事務局長を務めている関係で、まぁ「世界の宗教も一緒に仲良くしようね」「いろいろ、宗教間対立もあるし、理解を相互に深めればけんかしなくていいじゃない」みたいな趣旨のカトリックの諸宗教対話評議会に関係があって、英語がうまく、国際活動ばりばりの知人の浄土宗僧侶(なんとアメリカハーバード大学大学院卒)と一緒に、協会の一行四十人をつれてはらはらどきどきしながら行ってきました。

 疲れました。慣れぬ英語での交渉から、英文の報告書作成などなど、ローマでの三泊四日。バチカンのローマ教皇庁での、カトリック世界№2ラヨロ枢機卿謁見では、ピリピリのしっぱなし。観光などするヒマもありませんでした。でも、枢機卿ってすごいオーラがありますね。世界の宗教情報が集まり、そして絶大な信仰も集める枢機卿(えっと、ローマ教皇庁行政庁長官という肩書きでした)と、お互いの紹介に始まり、世界の宗教情勢から信仰についての会話、大変でした。イタリア語の通訳はつきましたけど。でも面白かった!。

 そしてその夜は、ローマ市郊外の山の上にあるベネディクト修道会の修道院に泊まりました。グレゴリアン聖歌を唱和する夜のミサ、早朝五時から始まる朝のミサも、すばらしいものでした。疲れ果てて眠かったけど、それでも零下の寒さのなか一生懸命世界平和を祈りました。祈りの本質は、仏教でもキリスト教でも、イスラムでも変わらないものだと思います。心の中の悲しみみたいなものを、神(仏)と共有する、そんなものだと思います。世界が平和になってくれればいいね。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 04:49 PM | comments (0) | trackback (0) |

極めて楽な世界

 宗教学者中沢新一によると、仏教のいう「極楽」とは「極めて楽な世界」なのだそうだ。この言葉で目からウロコが落ちた。そうか、仏教の根本命題「執着を捨てる」とは肩肘張って幸福になるためではなく、リラックスするためになのか。阿弥陀経、観無量寿経など極楽を詳細描写した経典を読むと、脱力系・癒し系の、あふれる光に水、かぐわしい香り、官能的な表現が続く。人生の究極の課題は、幸福になるためにではなく、楽になるためにある▼中沢先生によると日本仏教はアニミズム(霊魂信仰)なのだそうだ。ホトケという大きなものが私を包み込み、見守ってくれている、だからこのご恩に生きなくてはならないし、縁に生かされていることに感謝する。日本人が何千年と持っているアニミズム的性向と仏教の哲理が出会ってできた「縄文時代の仏教」だと中沢先生、なかなかしゃれたことを言う。▼あちこちで宗教がきな臭くなっている。これは、幸福になるための競争をしているのではないかなと思う。お互い、楽になるためにだったらもっと別な方途がいっぱいあったはずだ。原理に忠実であろうとすればするほど他との摩擦は激しくなる。BC3世紀、インドの仏教守護者アショカ王の言葉が碑文に残っている。「すべての宗教の根本となるものは、言葉を慎むこと―すなわち不適当な機会においてもっぱら自己の宗教を賞揚したり、他の宗教を非難しないこと、あるいはそれぞれの機会において穏和であるべきことである。」(「摩崖詔勅」)▼仏教はアジア世界において、土着の信仰と習合しながら、広まった。〈縁に生きる〉、〈共生する〉というのは、アンパンマンのように自らのいのちを与えてかたちを変えながら生きることではないか。肩の力を抜いて楽に生きることができればと切実に思う。(K)

| @Temple | 03:51 PM | comments (0) | trackback (0) |

ポクポク木魚 No26  和尚の冷や汗?弁明

ポクポク木魚 No26 

和尚の冷や汗?弁明

 「週刊朝日」にはこの頃、高齢社会を反映してか、臨終や看取り、お寺や法事、お墓などの特集「終活事情」という連載が掲載されています。これまで個人の信仰として、また地域や家族の共同体のなかでの習俗として、行われていたお寺のさまざまな行事も、さて、今や消費社会に取り込まれたなぁという感慨がある連載です。いやはや、お寺も「消費の対象」になってしまいましたね。お墓はどう購入するのかとか、葬儀はどう行うのかを生前から決定しておくべきという主張も記事にはありました。そんな時代なんでしょう。時代は変わりました。

 その連載で最新号(12/4号)には「こんなお寺とはつきあうな!10か条」という記事が出ていました。反省をを込めてその10か条に対し、やや冷や汗ものですが、弁明というか弁解というか、反論というか、をやってみたいなぁと思います。シャレとして読んでくださいね。
①外車や高級車を乗り回している ○弁明 日産スカイラインに乗っています。えっと高級車ではないと思いますけど……。それにまだローンが三年も。歴代住職車は十五万キロ乗って乗って乗りつぶします。

②建物や境内が整備されていない ○弁明 これには自信があります。檀家の皆さんや先代住職のおかげで、お寺もみなさまからほめられるぐらいにきれいになりました。

③坊主の評判が悪い
④家族の評判が悪い
○弁明 住職や家族の評判は、ひとえに檀家さんが決めること。今後とも先代住職、私、母、妻共々、誠心誠意お寺をもり立てていきたいと思います。

⑤お布施の額を明示しない
⑥葬儀や法事の見積もりと領収証を出さない
○弁明 都会では法事の見積もりを出す時代になったのですね。これには驚きました。お布施は、申し出があれば、領収証を出していますよ。お布施の額を聞かれれば、これまでのお布施の平均的な額を、お教えしております。

⑦護持会の会計監査がない
○弁明 専称寺には、護持会もありますし、専門の会計役員も複数の監査役員も存在し、会計はご存じの通り、監査を経て公開しております。きっぱり!

⑧寄進を押しつける
○弁明 これは、お檀家さんが押しつけられたと感じるかどうかにかかっています。これまで、説明責任は果たしたと思っていますが、いかがでしょうか。

⑨「ありがとうございます」といわない ○弁明 お布施、御寄付ともお寺のご本尊様がいただくものと理解しております。感謝の言葉を申さない訳がありません。礼も言えない坊さんが多いのかなぁ。さみしいですね。

⑩お経の説明ができない
○弁明 お経、お釈迦様の教え、法然上人の教えとも、わかりやすい言葉でお伝えしようと心がけております。いつでも聞いてくださいね。
 ふう、お答えになったでしょうか?(住職独白)

| ポクポク木魚 | 04:47 PM | comments (0) | trackback (0) |

無頓着な死

 親族の死に無関心な人々が増えている。葬祭に詳しい評論家の碑文谷創によると「家族である死者への関心が低く、死者への関心が遺族の間で希薄」な者たちが出現し始めているという。別れの場もなく葬儀もしないという「無意識的非葬式派」ともいうべき層が都市部で出現しているらしい。これまでも経済的な理由から葬式を出さずにすます者も、例外的だがいた。九〇年代半ばから増えつつあるのは、伝統的な家族の崩壊も手伝って、華美に流れる葬儀を嫌いごく近い親族だけで別れの場を設ける人々だ。古典楽曲を流し、花に飾られた死者と別れを演出する者もいる。しかし彼らは、家族の成員の死に対し積極的に関わろうとし、別れを直視する人々である。が、「葬式をすべきかどうか悩みもせず、葬式を出す動機を見いだせない」人々の出現は不気味だ▼この国では、母が子に際限のない暴力をふるい死に至らしめる、遺体をビニール袋に詰めてゴミに出す、子供が子供をビルから突き落とし殺す、そんなバブル期からの倫理大崩壊が、深く静かに進む。これら殺人者には実感を伴った死または死体のビジョンが欠落している。これら殺人を犯す人々と、無頓着に葬儀を忘れる人々は、死を棚上げにするという意味で通底しているのではないか、死が隔離され不可視になった時代の病ではないか、と思う▼施設で老い病院で病み死を迎え、そして斎場で葬儀を出しそのすべてが貨幣で決済されるという生老病死の外部化が、いのちの相を見えなくしている。家族と地域の崩壊が、これら病弊の進行に手を貸しているのは紛れもない事実だ。「わが耳に聞こえるほどの念仏」(法然上人)を称えながら最期を迎え、愛する家族、お世話になった隣人に送ってもらえたらと思うのは、筆者だけではあるまい。(K)

| @Temple | 03:50 PM | comments (0) | trackback (0) |

ポクポク木魚 No.25  Oh my骨壺!

ポクポク木魚 25 

Oh my骨壺!


 カトリックの世界であいさつ代わりに使われる言葉として「メメント・モリ」というものがあります。ラテン語で意味は「死を想え」。日常から死について、思いを馳せておかなくてはならないという意味だと想います。解剖学者で東大名誉教授の養老孟司先生の名言に「人間の死亡率は百パーセント」というものもありました。つまり「死なない人間はいない」。

 でも現代人は、死をなにか非日常として、決して自分の身の上ではずっと先のこと、自分には関係のないことと、考えがちではないでしょうか。死を忌諱する傾向が、あるのではないでしょうか。かつて、五十年ぐらい前までは、死は日常でした。戦争で、伝染病で、周りのものが死ぬことは決して珍しことではありませんでした。

 先日、ある陶磁企画会社の社長さんの訪問を受けました。売り物は「骨壺」。自らの死後に入るであろうお骨の壺を生前から、ちゃんとそろえておくべきだというのが、社長さんの主張でした。私も全く異論はありません。明治期の有田焼を再現した色絵などの伝統的な文様が、その骨壺には描かれています(写真参照)。十数万円するそうです。

 骨壺をじっと眺めていると、なにか不思議な気持ちになってきます。死後、自らは極めて楽な世界(極楽)に行き、でもこの世で、きれいな壺にお骨が収められて……。今の私にとっては、自らの死というものを、この骨壺によって、リアルなものとして体感できる……。うーん、様々な思いが交錯しました。一時期、お寺のロビーに、このきれいな壺を置いておいたのですが、でもギョッとしますね。お骨の壺という先入観が、どうしてもわき上がってくる。私も死をどこか遠くのものとしておきたい想いから、離れられないのでしょうか。

 社長さん曰く、「生前中はワインクーラーにも使えます」。うーん、そこまでは、使えないなぁというのも私のホンネ。皆さんは、いかがでしょうか。でもお骨の壺をそろえておくのは、いいと思いますよ。お寺に見本がありますので、興味のある方は、ひと言声をかけてくださいね。専称寺割引で安く買えると社長さんは言ってましたし……。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 04:45 PM | comments (0) | trackback (0) |

「こころくばり」の文化

 サブプライムローン問題に端を発したアメリカ発の世界恐慌が深く静かに進行している。資本主義のエンジンは「欲望」であるという。向上しようという意欲が、経済活動を活発にする。それによって、株式市場も活性化し、株式の価値も上がる。しかし、欲望に基礎を置く故に、不可避的に富に対する強欲(ごうよく)がはびこり、バブルを定期的に引き起こす。資本主義はバブルとの格闘の歴史ともいえる。現代は特に、金融や情報の技術が自己増殖し、人間の手でコントロールできない時代へと突入した。今回のバブル崩壊は、その点で傷が深い▼私たちは人と人との間を金に置き換えてはいないか? 経営者と社員の人の輪で成立した企業が、利潤優先の「鉄の檻」になっていないか?投資する資本家が、そんなに偉いのか? 浪費がそんなに楽しいのか? 結果として食品、賞味期限、耐震強度の偽装や、欠陥、失敗の隠蔽の連続。老舗から一流企業まで目を覆うばかりの強欲がひろがり、信頼の輪が喪われている。企業ばかりではない。年金崩壊、官製談合の政府、子どものいじめや自殺、モンスターペアレントになすすべがない学校。欲にまみれた相互不信が、この時代の基調音になってる▼「愛欲」「渇愛」「貪欲(どんよく)」「妄執(もうしゆう)」「煩悩(ぼんのう)」、これらはすべて仏典に起源を持つ言葉だ。仏教は人間の欲望の奥深さ(業(ごう))を知り抜いていたからこそ、欲望の質を細かく分析し、対象への執着(しゆうじやく)を否定する。過剰な物や心へのこだわりを捨ててこそ、信頼が生まれ、共感できる関係になるのではないか、と思う▼「共に生きる」社会は、心の施しができる共感のなかにこそ成り立つ。ぎらつく妄執を高度に制御したおもいやり、気くばり、心くばりの文化こそ、一千年をはるかに超す仏教思想に培われた日本人の心だと思う。(K)

| @Temple | 03:49 PM | comments (0) | trackback (0) |

ポクポク木魚No.24  Googleヒット 1200件!!

ポクポク木魚
 Googleヒット
 1200件!!

 先日、インターネットの検索サイトで、なにげなく「専称寺 多久」のキーワードを入れて、検索ボタンをポチッと押したら、何と1220件もの専称寺の関連ページが表示されて、驚いたことがありました。ご存じかとは思いますが、インターネット上での「検索」とは、そのページにキーワードと同じ言葉がある場合に、表示するものです。つまり「専称寺」と「多久」が共に同じページにあるものが千二百件もあるということです。まぁ重複をのぞいても、だれかが数百もの専称寺についての文章、写真を公表していることになりますね。「いやはや」な時代になりました。

 「検索」サイトはこの時代にもう必要欠くべからざるものになっています。住所や電話番号に始まって、辞書、百科事典、地図、カタログ、新聞、週刊誌……。ちょっとした調べ物であれば、すべてこの検索サイトで間に合います。また、少しでも名が知られている人なら、個人名でも膨大なデータを得ることができます。(間違いもかなりあって、これまた「自己責任」です。プライバシーも調べられて、怖い時代でもありますね……)Google(グーグル)とか、Yahoo!(ヤフー)とかの言葉を聞いた方も多いと思います。

 表示されたサイトで、一番驚いたのは、インターネット上の百科事典といわれるWikipedia(ウィキペディア)に「多久 専称寺」があったことですな。誰かが、専称寺のことを調べて、百科事典に書き込んでくれている。百科事典といっても、専門家が書くわけではなく、ある一定の制限はあるものの、だれでも調べて書き込むことができるサイトです。その他、「専称寺の大ツツジ」とか「核割れ梅」、「少弐墓地」など観光でこの寺を訪れて、その感想を書き込んでいただいているサイト、地図のサイト、法事やお墓相談サイト、住職の活動紹介などなど、様々な記述を発見しました。

 専称寺のホームページ(http://www.senshoji.jp/)を開設して、六年になります。これまで六千件以上のページビュー(専称寺のサイトを訪れた回数)があって、毎日誰かが、お寺のページを参照してくれていることになりますね。これまたオドロキです。

 確かに、情報を得ることは、前では考えられないほど簡単になりました。都市であれ、多久のような田舎であれ、端末さえ目の前にあれば誰でもアクセスすることができる時代になりました。しかし、しかし、今日マスコミは、闇サイトで知り合った三人が殺人を犯し、死刑判決がでたと報じていました。天使も悪魔も、善も悪も、この娑婆世界と同じようにまるごと包み込むこのデジタル空間とどうおつきあいしていくか、まだまだ、時間がかかるような気がしています。(住職独白)

| ポクポク木魚 | 04:43 PM | comments (0) | trackback (0) |

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