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中国

龍門石窟(洛陽市郊外)
亜州古寺巡礼
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples

 二十五年ほど前のことだ。終わりのない旅を大陸中国から始めた。文化大革命の悪夢から醒め、開放へ舵を切り始めて間もないころだ。香港から陸路で中国に入った。晩秋の夕、広州を発ち翌日午後には長江を越えた。車窓の風景は東南アジアの名残りから北東アジアへ。一七四二キロ、二泊三日三十五時間の鉄路の旅は風土を超える。
 朝四時半、古都・洛陽の駅に着く。まだ暗く、とても寒い。息が白く見える。白い服を着た中年女性が何人も竹ぼうきで駅の構内を掃き清めている。人海戦術である。駅前広場には薄暗いなか、幾つも列車別に長い行列が出来ている。北京行き、上海行き、ウルムチ行き、広州行き、行列する父親は膨大な荷物を背にし、母親の手の「上海バッグ」(上海のロゴマーク入り、ブランドバッグと言ったらいいのだろうか)には猫が二匹入っていた。振り分けのカゴには鶏もいる。家財道具も移動する大陸の旅は、快楽であると同時に苦行でもある。
「同志(トンジー)」、バイクに荷車を着けた車の男から呼び止められた。広い並木道を、自転車の波をかき分けつつその輪タクで宿に着いた。宿の玄関はまだ閉まっていた。裏口から入ると、女の服務員が迷惑そうな顔をして応対にでた。「部屋はない、多人房(相部屋)に空きがある。そこに入れ」。眠りを妨げられてあからさまに厭な顔をしているのが分かる。ベッドに案内されて、寒い部屋で眠る。起きたら、昼近かった。街へ出る。町の餐庁(食堂)の広州云呑(日本のワンタンと言うより餃子入りスープと言った方が近い)がおいしい。体が温まってくる。旧市街を歩く。杜甫、李白の街である。杜子春もこの王城を歩いたはずだ。が、この旧市街はどこにでもある小さな田舎町に過ぎないように見えた。漆喰の剥げかかった土塀に狭い路地、あちらこちらに道の上に野菜や布切れを広げた露店がたっている。仕事があるのかどうか、多くの人が狭い道端に三三五五、たむろしていた。昔歴史の本で想像していた九朝の都・洛陽とはほど遠いたたずまいである。  翌朝、宿の前のバス停から公共汽車(バス)で龍門石窟を目指す。十五分ほどで着く。バスを降り、橋を渡る。ピーナツ売りや瓜子売り、みやげ屋をかき分け、集票処(チケット売り場)で中国人にまぎれ、中国人料金の一人二角(十四円)也の入場料を払う。
 五世紀末、北魏の時代から三百年、唐代まで二千を超す石窟が開鑿された名だたる石窟寺院だ。宮廷生活を描写した賓陽洞、小さな仏を数万体彫りだした万仏洞、最も古い古陽洞などを回る。則天武后の発願で完成し、高宗皇帝自らが寺額をしたためた最大の石窟・奉先寺洞に圧倒される。高さ十七メートルといわれる仏の大きさに対してではない。本尊(盧舎那仏)、菩薩、羅漢、神将、力士、仏弟子という九仏二供養者が、定められた様式のままに、お立ちのその姿にうたれる。その昔、小さな祠まで何千とその全てに主仏、脇侍が鎮座し、僧侶たちは儀軌に準じて儀礼を執行し、全てが壮大なシンフォニーと化したいにしえの風景を想像する。数百年にわたってひたすら仏を造立する熱情を思う。
 あれから四半世紀、現代中国の変化は想像を絶する。雪崩を打って改革開放にひた走る中国。しかし千年を遙かに超え、静かに立つ仏たちのまなざし、それに相対峙する人々の思いは、往時と何ら変わりはしない。

龍門石窟の奉先寺洞の本尊・盧舎那仏

小さな洞に多くの仏が(龍門石窟)

子どもたち(西安)

巡礼メモ

 日本から洛陽への直行便はない。空路だと北京または上海乗り換え。中国の鉄道の旅も楽しい。北京から九時間半、上海からは十七時間近くかかる。観光地だけあって、石窟寺院までは市内各所からバスが出ている。