専称寺ご案内
寺だより「MOYAi」
ギャラリー三蔵堂
オフィス三蔵堂
専称寺墓地・納骨堂「光明殿」
永代供養墓「菩提樹陵」
お寺アクセス
お問い合わせは、mail@senshoji.jp へ
専称寺トップへ
www.senshoji.jp

中国

炳霊寺石窟(蘭州市郊外)
亜州古寺巡礼
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples

 蘭州駅に朝四時半に着く。ホームに降り立つ。吐息が白い。ここは中国・西域の入り口だ。風が乾いているのが分かる。
 インドからパミールの雪山を越え、砂漠のなかオアシス伝いに西域南路、天山北路、天山南路と東西文明を結ぶ道が続く。敦煌・陽関で三つの道は一つになり、砂漠と祁連山脈に挟まれた隘路を行く。それが河西回廊と呼ばれる東西文明の要路、仏教伝来の道である。回廊の東、中華世界の辺境に蘭州がある。
 この街に降り立ったのは、荒地の絶壁にある炳霊寺石窟の仏たちに会うためだ。宿に急ぎ仮眠して昼、公安局で遺跡のある永靖県の旅行許可を取る。炳霊寺石窟寺院、中国では最も古い窟院である。五胡十六国時代、四世紀から唐代にかけて連綿と開窟と造仏を繰り返した。街から西南に七十五キロメートル、劉河峡ダムの人造湖をさらに五十キロ、一木一草もない奇岩が屹立する黄河の谷を遡航しやっとその仏にまみえることができるという。街で聞くと、ダムサイトまでバスが一日に三本、渡し船は不定期だという。夕食は道ばたで羊の串焼きシシカバブと白酒(パイチュウ)、体が温まる。たどり着けるか不安のままひと夜を過ごす。
 翌朝、次の目的地敦煌への列車の切符を予約しに駅へ。昼過ぎに街で永靖県行きのバスをつかまえた。乾燥した大地を横断する甘新公路をどんどん山に突き進む。羊の群れとそれを追う子ども、あたりが淋しくなってくる。三時過ぎ村に入る。永靖県招待所という貧しい宿で荷を置く。そのまま明日の渡船の交渉に黄河に走った。三隻ほどの渡しがのんびりと浮かぶ。船頭が明日も船は動くという。仏たちに会えると心底ホッとする。夜、イギリス人のカップルと話し込む。暖をとるものが無く寝袋の上に宿の毛布を掛けて眠る。
 次の日の朝食は、蘭州で仕入れてきていたパンのみ、カップルと分けて食べる。船は十時に出た。解放軍の軍人家族十数人と日英の外国人旅行客を乗せて、翡翠のような深緑の湖面を、ゆったりと進む。日差しは強いが風が冷たい。ダム湖を奥へ奥へと行く。山には緑がほとんどない。遠く、わずかに残る草の周りに芥子粒のような羊が群れる。稜線に羊飼いの小さな人影が見える。日が高くなる。剣のような奇峰を回りこむ。水平線の向こうに大仏が見えた。
 石窟は、大寺溝と呼ばれる岩壁に長さ二キロにわたって広がる遺跡である。窟が集中する西岸には、南北三百五十メートル、高さ五十メートルにわたり西秦から隋唐代まで百八十四の窟がある。石仏六百八十二体、塑像八十二体が確認された。河西回廊各地に点在する石窟寺院で、敦煌・莫高窟と並んで規模が大きい。仏たちは、大らかな顔をしてらっしゃった。高さ二十七メートルあるという巨大な弥勒仏に巡らせた階段を上った。周りに小さな祠が掘られ、そのそれぞれに仏像が鎮座される。仏の光背に、椰子の木が描いてある。お顔がどこか中央アジアの雰囲気を漂わせている。中華世界の版図を離れ西域に入ったなと実感する。帰途、船を下りるとこの日最後のバスが出たあとだった。船で一緒だった解放軍のバスと交渉し同乗させてもらう。ガードレールもない夕暮れの深い谷を、人民軍の赤い頬をした若い運転手と饅頭をほおばりながら下った。

石窟の中に千手観音が(炳霊寺石窟にて)

中国西域はムスリム世界(カシュガルにて)

豚の皮でイカダを作る(炳霊寺石窟にて)

巡礼メモ

 蘭州へは日本から直行便はなく西安から、バス鉄道に乗り継ぐのが便利。特急列車で西安から約十二時間、敦煌からも同じく十三時間かかる。炳霊寺へは現在、蘭州からバスツアーが出ており現地でも参加できる。