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パキスタン

タクティ・バイ寺院(ガンダーラ地方)
亜州古寺巡礼
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples

 中国とパキスタンを結ぶクンジェラブ峠(四九七六メートル)を八六年に越えた。外国人旅行者に国境が開放されて半年後、西域の町カシュガルを出て、いたるところで崖崩れを起こしている未舗装の悪路を、パキスタン商人がチャーターしたオンボロバスに揺られ、パンクとエンジントラブルに悩まされ、野宿しながら二泊三日、雪嶺の美しさに励まされつつ国境を走破した。バスには食料のニワトリと貿易品である中国の生活物資、屋根の上には自転車五台も載っていた。カラコルム山脈を越えるタフな旅で親しくなった商人は自らの国を「ハード・イスラム・カントリー」(熱烈なイスラム教国)と紹介した。峠を下ると、モスクからコーランの響きが聞こえ、商人たちも旅の途上バスを停めメッカの方向に礼拝した。
 カラコルム越え、パミール越えは古来、仏教東漸の道である。そのインド側の出発点ガンダーラの地(パキスタン北部)は、文明のクロスロード、あまたの民族、宗教が興亡した。インダス文明の神々、インド・バラモン教、ゾロアスター教、アレキサンドロス大王の東征でギリシャの神々の神殿が建ち、紀元前二世紀ギリシアの王メナンドロスは仏教の聖者と対話した(経典『ミリンダ王の問い』として現存する)。紀元前後、ガンダーラのペシャワールに都を定めたクシャン王朝の御代、カニシカ王の治世には諸宗教のるつぼから、仏教興隆の中心地となった。仏像はお釈迦さまの入滅後、五百年あまり経って初めて、この地で生まれた。多様な文明にもまれ魅力を増した仏教は、国際性を獲得し、シルクロード世界に伝播し始めた。
 信仰の高揚は、雪山の荒涼たる峠を越え、砂漠をわたって後漢帝国にもたらされた。のち五世紀には法顕が、七世紀には玄奘三蔵が、経の原典を求めこの険阻な道を歩いた。世界を揺るがすイスラム原理主義揺籃の地の一つとされるここに、アラーの神の信仰が定着したのはずっと後世のことである。
 十数年ぶりに、灼熱のガンダーラを訪れた。ガンダーラ美術の代表的な遺跡タクティ・バイ寺院は、車でペシャワールからスワート街道を北上、二時間ほどで着く。車を降りて尾根を回りこむと、小高い岩山の中腹に姿が現れた。下から見上げると、砦または古城の趣である。この遺跡は一八六九年、イギリス軍によって最初に発掘された。優美なガンダーラ仏を含む数百の石彫品が、ラホールやペシャワールの博物館に運び込まれ、世界の注目を浴びた。薄い板石を重ねて造った階段を上ると、大小のストゥーパ(仏塔)が立つ中院に出る。北に多数の比丘(僧)が生活した僧院や、読経の声が響いたであろう講堂、南には六メートル四方の仏塔の大基壇が残る塔院が広がる。紀元前一世紀から七世紀まで営々と伽藍が造営されたという。あまたの僧侶たちが戒律の生活を続けながら、ガンダーラの仏たちに香華を手向け一斉に経をあげる風景が蘇る。
 紀元前後、この寺が隆盛を極めたころ、極東の日本はやっと文化の黎明の時を迎えたにすぎない。パミールを越え、天山山脈の山すそをたどり、黄河を下った決死の旅人たちによって仏の教えは伝わった。日本に仏教がもたらされたのはお釈迦さまの時代から千年近く経って、仏像の発生から数えて五百年後のことである。

店頭をにぎわす豊かなフルーツ(フンザ渓谷にて)

タクティ・バイ寺院内部

シャンカルダール仏塔・ガンダーラ地方には数多くの仏塔が(ペシャワール郊外)

巡礼メモ

 日本から首都イスラマバードへは現在、直行便はない。北京、バンコクまたはカラチで乗り換える。イスラマバード〜ペシャワールはバスで四時間ほど。クンジェラブ峠越えのツアーは日本の代理店でも扱う。中国カシュガルまで最短4日ほどかかる。