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寺だより「MOYAi」
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如是我訪アーカイブ

如是我訪アーカイブ
 如是我訪−アジア古寺巡礼というタイトルで季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)に連載し、それをお寺新聞「MOYAi」に転載しています。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第五話
●ワット・シェントーン
(ラオス・ルアンプラバン市)

 「ここはラオスの故郷に似ている」ピッツァモンはそう言う。「田んぼがあって、緑豊かで、お寺の屋根が見える。いつか帰りたい」。ベトナム戦争が終わって三年目、彼女は日本にふるさとの風景を発見した。母国の革命は、ラオス外交官の父の任地で知った。高校はパリのリセを出た。大学に入ってすぐ、国を追われて難民ビザのまま日本に来た。私と出会ったのもそのころだ。
 「なぜ仏教という共通の教えをアジアは大切にしないの?」彼女はよくそう問いつめた。「ラオスもベトナムも、ビルマもタイも仏教国でしょう。台湾もチベットも中国も同じ仏教国のはずよ」。イデオロギー全盛の当時、アジアはずたずたに分断されていた。東西対立だけでなく、中国とベトナムの紛争も勃発していた。
 アジアの仏教国を歩くと、互いに仏教徒であるという事実に安堵する。掌を合わせるあいさつのかたち、汽車に乗って遠くを見渡すと必ず目に入ってくるお寺の屋根や仏塔(それがストゥーパ、パゴダ、五重塔など様々な呼び方であろうとも)、街角で出会う剃髪の僧侶たち、そして何よりも欲望を減じて悟りや救済を目指す平和な教え。米大陸やアフリカ、欧州、そして砂漠のアラブ世界では絶対に味わえない感覚である。
 ピッツァモンの故郷ラオスの古都ルアンプラバンに入った。戦争と革命に疲れ鎖国状態だった東南アジアの小国も、開放政策から九七年のASEAN加盟で経済復興にわいていた。母なる大河メコンには、タイ側へ橋が架かり、ベトナム、中国への国境も開いた。リキシャとバイク、それに屋台に代表されるアジアの喧噪が復活していた。
 ルアンプラバンは、十四世紀に成立した王国の首都である。十六世紀には首都をビエンチャン(現首都)に譲ったが、なんと七五年、左翼政権パテト・ラオにより王政が廃されるまで、王都として命脈を保っていた。今も生活が仏教と共にあった中世・仏教王国の雰囲気を色濃く残している。
 ルアンプラバンの朝は、僧侶に温かいご飯を布施することから始まる。六時、バービエンというショールを肩にかけた女たちは、居住まいを正して、黄色い法衣をまとった僧たちの行列を待つ。托鉢僧は、布施をいただいても返礼はしない。返礼をすると、人々の功徳が無くなると固く信じられているからだ。
 十六世紀に開かれたワット・シェントーンは、王家の寺である。一九〇四年、最後の戴冠式でもここが舞台になった。タイの地方文化と見られがちなラオスの仏教美術だが、この寺は紛れもないラオス特有の様式を主張している。軒が深く垂れた木造の主殿、堂の壁一面、朱色の地に鮮やかに描かれた「いのちの木」と称される壁画など。王家の庇護こそなくなったが、仏教復興の流れのなか、今、数多くの小僧たちが、この街で戒律を守り、経典を学んでいた。
 この街とその寺院群は、ユネスコ世界遺産に指定された。仏教と生活が幸福に結びついたこの珠玉の王都にも、いずれ日本人が多数観光に訪れるだろう。世俗の垢にまみれたかに見える極東の大国の人々は、この寺に何を発見するのだろう。「アジア共通の仏教」-難民ビザを持っていたピッツァモンの切実な問いかけに応えうる何かを発見してくれるのだろうか。
仏 塔
 お釈迦さまのご遺骨(仏舎利)が仏教で最初の崇拝対象であった。これを納めたものが、ストゥーパ(仏塔)といわれる。有名なサーンチ遺跡の仏塔(BC2世紀)が世界に広がる仏塔の祖型となった。
 スリランカを経て東南アジアに広がった仏塔を、欧州の旅行者、冒険家は「パゴダ」と呼んだ。語源は明かではない。ラオスのタート・ルアン他、ミャンマーのシュエダゴン大塔、スリランカのルワンワリサーヤ大塔など巨大な仏塔が、インド-東アジア間に多数存在する。
 中国から朝鮮半島、日本にかけては、楼閣建築と結合して、層塔となった。五重塔の頂部の様式は、古代インドのストゥーパを模倣したものだといわれる。また著名なボドブドール遺跡(ジャワ島)もまた、その起源はインドの仏塔にある。
《巡礼メモ》
ラオスへ日本から直行便はない。成田、関空などからタイ・バンコクに飛び、ビエンチャン行きに乗り換えるのがベスト。ルアンプラバンへは、そこからプロペラ機で四十分の旅。毎日三便が就航している。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第四話
●タシルンポ僧院
(中国/チベット・シガツェ)

 四国八十八カ所のお遍路さんが、近年めっきり変わった。飛行機とバスを駆使して、インスタントのツアーが主流になった。「同行二人」と書いた笈摺に手甲、脚絆姿で歩く巡礼旅がめっきり減った。巡礼は、やはり長い時間をかけ、苦労して廻らねばと思う。道程こそ、重要なのだ。険阻な道、雨風、病を克服して歩くことこそ、寺巡りの意味がある。法悦がある。苦労して寺に着き拝む仏さまのお顔が、労苦を吹き消す。
 チベット仏教を代表する寺であれば、ゲルク派総本山で、解放軍侵攻以降の荒廃から復興しつつあるガンデン僧院、セラ僧院やラサの中心に位置し強い信仰を集めるジョカン寺が挙げられよう。タシルンポ(一四四七年創建)は、チベット第二の都市、ラサから二百キロ西のシガツェに建つ。歴史的に、ゲルク派にありながら法王ダライ・ラマと微妙な緊張関係にあったパンチェン・ラマが一六世紀以降歴代、住持した。中国との関係に翻弄された寺でもある。
 十数年前、中国・ネパール間の国境が開いてまもなく、ヒマラヤ超えでラサを訪れた。その途上この寺に初めて参った。ネパールの首都カトマンズからバスで国境へ向かった。バスは国境まで着かず、トラックの幌の上で川伝いに緑の谷を駆け上がった。牛小屋と見まがう出入国管理事務所で、旅券に出国印を受け、国境の橋を歩いてわたり、中国(チベット)国境の町へ入る。バス待ちで二泊した。
 川底も見えず、峰も遙か彼方という巨大な谷にへばりつくつづら折りの隘路をバスは進んだ。緑の広葉樹林は、いつのまにか灌木だけに代わり、岩と石ころが露出する壁のような山塊に劇的に変化した。高度二千三百メートルの国境の町から、五千二百メートルの峠まで、わずか半日、空気も激減し息苦しさをおぼえる。雲がすぐそこにある。天が降りてきたようだ。空気が乾燥した。遙か向こうの山塊に数百頭の羊が、ごま塩のように見える。高原の荒野を馬にまたがったチベットの人々が、ロバを従えて歩む。胸苦しさと反対に気分は高揚した。小さな村でバスを降ろされる。ヒッチハイクのトラック待ちで道ばたの食堂で寝袋にくるまり一泊、シガツェまで四日かかった。
 タシルンポに翌朝お参りした。迷路のような寺だ。身をくねらせる密教の仏を祀る暗い部屋を抜けると巨大な釈迦像が鎮座する巨大な堂宇、大麻のにおいに似た青臭い香がくゆり満ちていた。現存する世界宗教のなかで唯一、性の秘儀を教義の奥深くに取り込んだチベット密教、ヤブユムと呼ばれる男女の合体仏がそこここに妖しく立っている。禁忌であるはずの性の衝動をいかに信仰にまで高めたか。性を手なずけ死の快楽にさえ寄り添う修行法が本当にあるのか。僧が低く経をあげる。巡礼は灯明にバターを注ぐ。仏名を呼ぶ女たちの眼には涙があった。この寺に一挙に魅せられた。
 先日、シガツェを再訪した。街には「開放五十周年」記念の旗が舞っていた。寺には政府により先年没したパンチェンラマの巨大な堂が新築されていた。北京政府と亡命政権により、二人のパンチェンラマが生まれ、一人は失踪、もう一人は幽閉された。ダライラマは、インドに亡命したまま、帰還にはほど遠い。雲上の理想郷チベットは、近代の国際政治にもてあそばれたままである。(この原稿は、副住職が連載している雑誌「かるな」からの転載です)
須称山
 仏教の神話的な宇宙の中心に位置する聖なる山。西チベットにあるカイラス山(チベット名カンリンポチェ=標高6656メートル)が古来、須称山に擬せられ、仏教徒だけでなく、ヒンズー教徒の深い信仰を集める。数ヶ月かかる巡礼の旅に出るチベット人も数多い。巡礼者はこの山を数週間かけて五体投地の礼拝で三周右回り(右繞三匝)する。カイラス巡礼は、外国人も可能だ。
 インドの四大河川、インダス川、ガンジス川(カルナリ川)、チベットを横断してバングラデシュに注ぐブラマプトラ川、サトレジ川のすべてが、この山周辺を源流とする。須称山は妙高山とも訳され、日本の山名となった。
 先日、聖なるが故に未踏峰だったカイラス山に「中国政府が登山許可を出した」という報道が流れ物議を醸した。
《巡礼メモ》
日本からラサへ直行便はない。上海(香港)から成都経由(ラサ〜成都は毎日運行)が最短、最低二日必要。高山病対策必須。シガツェへは、ラサからバスで約七時間。ラサへ四川省、青海省から陸路でも可能だが困難。

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