専称寺ご案内
寺だより「MOYAi」
ギャラリー三蔵堂
オフィス三蔵堂
専称寺墓地・納骨堂「光明殿」
永代供養墓「菩提樹陵」
お寺アクセス
お問い合わせは、mail@senshoji.jp へ
専称寺トップへ
www.senshoji.jp

寺だより「MOYAi」
@TEMPLEアーカイブ
如是我訪アーカイブ

如是我訪アーカイブ
 如是我訪−アジア古寺巡礼というタイトルで季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)に連載し、それをお寺新聞「MOYAi」に転載しています。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第七話
●プラサート・ピマイ寺院
(タイ・コーラート郊外)

 タイ・バンコクの国際空港・ドンムアン空港が大好きだ。シンガポールのチャンギー空港と並び世界中のフライトが集まるアジアのハブ空港である。搭乗を待ちながら辺りを見回していると、実に雑多な人が集っているのがわかる。ターバン姿のインド・シーク教徒、ビーチリゾートを楽しんで真っ赤に日焼けしたオーストラリアの一家、ロシアからは黒革のオーバーを着たままのビジネスマン、それぞれの個性を主張している。
 発展途上国の空港では、空港にいること自体がステータスだ。お金持ちは高慢に見え、貧しい庶民が迷い込もうものならつい卑屈にさせる。逆にロンドンのヒースロー空港、ニューヨークのケネディ空港あたりだと、今度は貧しい国のお金持ちが、身を縮める。
 ドンムアン空港は、どちらとも違う。様々な人々が、自ら育った文化や宗教を、素直に出せる雰囲気が漂う。シーク教徒でも、クリスチャンでも、ムスリムでもタイ特有の微笑とともに合掌のあいさつをされると、心底ほっとした顔をする。外国人に対する疎外感は微塵もない。
 タイの人々にとってお寺は生活そのものだ。修行僧に布施を施すことこそ、ピーという名で知られる悪霊を鎮め、幸福をもたらすと堅く信じられている。早起きして通りに出ると、この国ではいたるところで托鉢の風景に出会う。黄色い僧衣をまとった僧侶の集団に、人々がご飯などを布施している光景が日常だ。施すという行為に隠されている心の優しさが、タイ人の不思議な微笑みを創り出しているのだろうか。それとも、他との違いを認め、許し合うという仏教の教えが、タイの人々の心の底にあるのだろうか。何十回も通ったタイの空港で、いつもそんな想いにとらわれる。
 東北タイのコーラートの街郊外に、クメール系の大乗仏教遺跡があると聞いて、一昔前のことだがお参りしたことがある。ひと月以上この国にいて、お釈迦さまオンパレードのタイの仏教に少し飽いていた。たまには、菩薩や如来さまが列をなす大乗仏教の仏さまに会いたくなった。高速バスで5時間、コラートの街におり、それからバスで小一時間、小さなピマイの町に降り立った。「小さなアンコールワット」と表現できようか。本家とは規模が違うが、それでも二百メートルをこす石の回廊に囲まれた、高さ二十八メートルの祠堂がそびえていた。案内板には、タイのクメール遺跡では最大とあった。細部をじっと見ると、やはり仏教とヒンズー教が入り交じった構成になっている。ビシュヌやガルーダなどヒンズーの神さまがあると思えば、すぐ隣にお釈迦さまの前世の物語であるジャータカの仏伝絵巻が石に彫り込まれている。十二世紀に建立されてずっと、ヒンズーの神と仏教の仏は共存していたのだと思う。
 他の存在を認めず非寛容で、あれかこれかを迫るのは、砂漠で生まれたキリスト教やイスラム、そしてユダヤの神さまだけなのだ。アジアの神仏は、みんなおおらかに共存していたんだ、そう思うとうれしくなってきた。
 寺を辞したら、夕暮れが迫っていた。バス停までとぼとぼ歩くと、巨大な夕日があった。乾燥した大地に、涼風が吹いた。黄衣の坊さんが、小僧に巨大な傘をささせて前屈みになって歩いていた。
合 掌
 古代インドより続くあいさつの仕方である。二千年以上前からインドでは、右手が清浄、左手が不浄の手として、意味づけられている。現在でも、食事に左手を使うことはタブーとして、完全に守られている。その文化を仏教も受け継いだ。右が仏、左を私たち衆生とし、仏と人が一つになった姿を現す。
 現代では、アジア諸国での共通のあいさつになった。インド周辺のスリランカ、ネパール、そしてビルマ、タイ、ラオスでは仏への礼拝だけでなく正式な日常のあいさつだ。東アジアの日本、朝鮮半島、そして中国、ベトナム、チベット、ブータンなどでは、感謝の姿、そして仏への帰依を表す。
 特にタイでは、若い世代から老年まで「サワディー」のあいさつと共に合掌する習慣が強く、日本人にはなにかホッとする雰囲気を醸し出す。
《巡礼メモ》
タイ・バンコクまでは成田、関空ほか各国際空港に定期便が就航。安いチケットだと5万円台と気軽にいける。ピマイ最寄りのコーラート(ナコンラチャシマ)空港まで飛行機で1時間弱。バスでも最速4時間で着く。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第六話
●バイヨン寺院
(カンボジア・シェムリアプ)

 東南アジア大陸部の国々が、この十数年で一斉に国境を開放した。中国が政治的に安定し、ラオス、ベトナムへ陸のルートを開けた。ドイモイ政策に乗るベトナムはラオス、カンボジアへ。タイもまたラオス国境のメコン川に橋を架け、中国南西部辺境から東南アジアの中心都市バンコクまで一挙に人やモノ、そして情報の流通が自由化した。内戦が続いたカンボジアも、左翼ゲリラの武装解除をすすめ、昨年、待望のタイとの国境を一般旅行者に開け放った。半世紀以上続いた東西対立による壁が崩壊した。
 カンボジアへは九四年、当時繁栄にわき始めていたベトナム・ホーチミンから、公共バスで入った。メコンデルタを遡る十二時間の旅である。手入れされた水田を見ながら、何度か国境警備のチェックを受け昼前には、国境に着く。入国管理と税関の喧噪に二時間、カンボジアに入った。言葉やお金が変化したこと以上に、風景が変わった。同じ気候、植生、いずれも母なるメコンの恩恵を受ける肥沃な大地である。しかし、水田に水が入っていない。稲が立ち枯れている。ベトナムでは田に人が出て忙しく働いていたのが、ここでは誰もいない。国も人も疲弊していた。国境とは不思議なものである。
 仏教の至宝アンコールワット、アンコールトム遺跡群には、歴史的な日本人の落書きがある。十を超す安土桃山〜江戸初期のものが、確認された。当時の日本人は、ここをインド古代の釈迦とその弟子たちの拠点だった「祇園精舎」と誤解した。三代将軍家光は使節を派遣し、完璧な平面図を作らせた。(現存するその模写には、あるはずのない「祇園精舎の鐘」や、和風の甍が描かれているのだが)。当時数万といわれるベトナム・ホイアン、タイ・アユタヤなど日本人居留地からも、幻の祇園精舎詣でが続き、日本本土からも「数千里之海上ヲ渡リ」(「寛永九年森本右近太夫」の落書より)、遊行への思いを果たしたものが多数いた。一般日本人による国際巡礼の嚆矢だろう。
 この遺跡群は十二世紀に最盛期を迎えた水の帝国クメール王権による仏教・ヒンドゥー教の世界最大の遺跡である。その壮麗さといい、規模といい比類がない。細部の美しさにも言葉を喪う。十六世紀の日本人が、伝説の精舎と勘違し、将軍さえ動かしたことが、現地に立ってみるとよくわかる。
 シェムリアプの村から車で十数分、東西一・五キロ、南北一・三キロの巨大な環壕に突き当たる。ぐるっと周回すると、ヒンドゥー教の神ビシュヌを祀ったアンコールワットの入り口が見える。高さ六十五メートルの中央の祠堂は遙か彼方だ。バイヨン寺院のあるアンコールトムはさらにその奥である。巨大な塔の四面に神秘的な観音菩薩の微笑みがあった。バイヨン寺院の三百メートルを超す回廊には、伝説の歌姫ウプサラが舞い、当時の生活が微細にわたり活写されていた。
 アジアの寺々を巡礼して回ると、こころが透明になる。地元の人々と同じように仏に祈りそして花を手向ける。平和の恩恵として国境の障壁がなくなり、日本人の旅券さえあれば、自由に行き来できる時代となった。御大師さまの四国巡礼ならぬアジア「八十八カ所」古寺巡礼。中国、東南アジア、インドまで、お釈迦さまと「同行二人」の遍路旅に無性に出たいと思う。
祇園精舎
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という平家物語冒頭の句によって中世以来、日本人にはおなじみの地名だが、二十世紀に入っての発掘調査で、北東インドのサヘート・マヘートが祇園精舎跡と確認されるまで、千三百年間にわたって地上から消えていたことになる。十六世紀の日本人が、知るよしもなかろう。
 釈迦とその弟子たちが、古代インドの都市舎衛城(シュラーバスティ)の長者から寄進を受け、教団の安居の地となった。経典には、釈尊がこの地で数多くの説法を行ったことが頻出する。ちなみに古代インドには梵鐘はなかった。
 京の舞妓さんと外国人にGIONで有名な八坂神社は、この祇園精舎の守護神だったとされ疫病を退散させるバラモン神牛頭天王を祀る。この神はその後、神道と習合した。
《巡礼メモ》
アンコールワット詣では、以前から考えられないほど簡単になった。日本各地の国際空港からバンコクへ飛び、そこから観光の拠点であるシェムレアプまで直行便が飛ぶ。所要時間わずか一時間ほど。首都プノンペンからも空路がある。

Copylight(c) 2003 HOHNEN BUDDHISM SENSHOJI TEMPLE, SHUNKAI KAWASOE. All rights reserved.