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如是我訪アーカイブ
 如是我訪−アジア古寺巡礼というタイトルで季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)に連載し、それをお寺新聞「MOYAi」に転載しています。
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如是我訪─アジア古寺巡礼 第十話
●マイニマチ遺跡
(バングラデッシュ・コミラ市郊外)

 首都ダッカの空港は、喧噪に満ちている。飛行機を降りて、入国手続きへと向かう。「ターンテーブルから手荷物が出てこない、破損している、中身を盗まれた……」。係官へ必死の形相で訴えるものがいる。賄賂を要求しているのか、思わせぶりな仕草をする税関員をやり過ごし、やっとの事で空港を出ると、外は物乞いなど黒山の人だかりだ。「ふうっ」とため息が出る。一昔前のインドよりひどい。
 東ベンガル地域では最大の仏教遺跡、マイニマチ遺跡へと向かう。首都から東へ約百五十キロ、国境の街コミラ郊外にある。
 牛車にトラック、おんぼろバスと人力車、混乱を極める首都の渋滞を抜けて、ガンジス下流のメグナ川を超えた。狭い道を疾走する車で二時間ほどコミラ市街に入る。第二次大戦墓地に数十基の日本人兵士の墓があった。インパール作戦の戦没者墓地という。持参の香を手向ける。
 この国は、国連の定義する世界最貧国の一つである。雨期で、道の両側は水没している。年によっては全国土の三分の一が水害に襲われる。二度にわたる独立戦争で疲弊し、一九七〇年代には飢餓状態に陥った。現在も例えば、平均月収(成人男子)三十ドル以下、十五歳以上の識字率三八%、平均寿命五十六歳、五歳までの乳児死亡率が千人中百二十二人、失業率は三五%を超えたままだ(アメリカ議会統計による)。
 国際経済上の辺境、これといった資源もない。仏教の歴史でも忘れられたような位置にある。仏教史上、研究の中心は、ブッダの生きたガンジス流域、仏像の発生したガンダーラ地方からデカン高原北部、密教として完成したチベット、仏教東漸のパミール高原からタクラマカン砂漠そして中国大陸など。バングラデッシュのある東ベンガル地方など、仏教史にはほとんど出現しない。南伝仏教の上座部の教えもまた、スリランカ、タイ、ミャンマーが中心だ。
 遺跡は、人知れずバングラデッシュ陸軍の駐屯地のなかにひっそりとあった。許可証を提示して軍用ゲートを抜け、兵隊に案内されて小高い丘に上る。十三世紀にインド亜大陸で仏教の滅亡する直前まで生き長らえた僧院、仏塔からなる遺跡があった。七世紀にここを訪れた玄奘三蔵(602-664AD)の報告によると、二千人の僧侶、七十の僧院、そしてアショカ王柱からなる大仏教センターだったという。写真撮影は兵士に止められたが、今も軍用地、住宅地などからなる五キロ四方に十を超す遺跡が散らばる。
 中心となるサルバン僧院を訪れた。百十五の房室を持つ僧堂と大講堂跡が発掘され、その脇に建つ博物館には、様々な出土物に囲まれて巨大な石造の仏陀像(十世紀)があった。地元の観光客が訪れるのか、バラックのみやげ物屋がいくつか店開きしていた。
 一億三千万人近い人口で、イスラム教徒が九割弱、残り一割がヒンズー教徒。仏教徒も迫害されながらも少数民族を中心に数百万人は住む。この国東部の商業都市チッタゴン郊外の仏教徒村に、小僧を養成する上座部系の僧院を訪れた。六歳から十六歳まで三十人ほどの小僧たちが、朝五時に起床し、黄色い僧衣をまとって托鉢に出、パーリー語の経典を読むという仏陀以来の僧伽(サンガ)の暮らしをしていた。仏教二千五百年、悠々とした時間が流れていた。
玄奘三蔵
 三蔵法師。明代の小説『西遊記』の主人公として広く知られる。孫悟空、沙悟浄、猪八戒らと仏典を中国にもたらした冒険譚は、現代でも何度も映画化された。玄奘三蔵はアジア仏教のヒーローである。
 七世紀、中国唐代の求法僧で大冒険家、大翻訳家。仏教の心髄を求めて、国禁を犯しインド留学を決意し、西暦六二九年、天山山脈を超え、現在のアフガニスタンを経由して印度に入り高僧に学んだ。十七年をかけた訪印を終え、唐の首都長安で翻訳僧を組織、大慈恩寺で「大般若波羅蜜多経」六百巻始め、七十五部、千二百三十五巻を訳した。大慈恩寺には今も法師を慕っての参拝が絶えない。弟子に編述させたその旅行記『大唐西域記』十二巻は、その伝記『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』十巻とともに、その正確な記述によって、七世紀中央アジア、南アジアを知る基礎文献である。
《巡礼メモ》
バングラデッシュへは、日本からの直行便はない。シンガポール、バンコクで乗り継ぐのば最も便利。コミラへは首都ダッカからバスで二時間。遺跡を訪れるには現地代理店を通じて陸軍の許可証の取得が必要。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第九話
●ミソン遺跡
(ベトナム・ダナン郊外)

 ホーチミン(旧サイゴン)で見た葬列はすごかった。巨大な故人の遺影と、豪華な棺に納められた遺骸を乗せ、花で飾った車を先頭に、車やバイクが数十台続いた。遺族は白い喪服に身を包み、仏典の文字を縫いつけたカラフルな旗がはためいていた。ベトナムの街々を歩いても、葬儀によく出会う。その雰囲気が目立ち、通りすがりの外国人にも、すぐわかる。派手な葬儀は華人社会の専売特許だったはずだが、ベトナムも決して劣らない。
 葬列を離れ、小さな路地を入ってお寺にお参りした。「南無阿弥陀仏」と彫った大きな碑にぶつかった。聞くと仏教徒同士は阿弥陀仏のベトナム語読み「アジダファット」とあいさつをするそうだ。ベトナムは少なくとも仏教に関するかぎり大陸側の東南アジア諸国と一線を画する。タイ、ミャンマーなどの僧は、古代インドのパーリー語、サンスクリット語で書かれた経典を読み、お釈迦さま一仏を祀る上座部仏教の教えに従う。それがこの国では、僧は日本や朝鮮半島と同じ漢訳経典をそのまま読み下す。位牌はもちろん漢字で書かれる。
 仏教史では、この国の仏教は禅系の教えが中心とするが、街の寺にはいると、どうも違う。暗い本堂にはいると、須称壇の最前列には道教の閻魔大王や地獄の十王が鎮座している。後ろに諸菩薩が並び、奥の方かすかに阿弥陀、釈迦、弥勒などの仏像が見える。奥の諸堂には、土着の神々も同様に祀られている。大地の精霊の信仰に大乗仏教各派の教えや道教、それに先祖信仰が複雑にミックスしているのがこの国の信仰だ。
 二世紀から千年以上にわたりベトナム中南部で栄え歴史に消えた幻のチャンパ王国(当時の中国人はこの国を「林邑」と呼んだ)の聖地ミソン遺跡を目指した。海上交易などを主として、明確な版図を持たないチャム族を中心に、断続的に勃興した歴代の王権が、聖なる山マハーパルヴァタの麓に営々と建立したヒンズー教・仏教の混交遺跡である。商業都市ダナンからバスで二時間、最後は四輪駆動車でジャングルを分け入った。インド古代遺跡を思わせる八つに分類される煉瓦造りの祠堂や塔が、聖山を背に並ぶ。破壊されたシバ神像、豊饒の象徴リンガ跡があり仏教の影響を思わせる意匠が随所に施されている。古代インドの言語サンスクリット語の碑文も出土した。ベトナム戦争で米軍から徹底的な破壊を受けた跡が痛々しい。
 華人社会を思わせる葬列、中国仏教や道教の影響が強く庶民層に深く浸透した現代のベトナム仏教、言語には中国語を思わせる単語が交じり、現代史でも毛沢東、ホーチミンと同時代に西欧列強と戦い、独自の社会主義国家を建設した。そして二〇世紀末からは開放経済に移行し、ともに大きな発展を遂げる。
 大陸の東南アジアを「インドシナ」とはよく名付けたものだ。インドと中国、巨大な文化圏に挟まれて、それぞれの影響を受けながら独自の文化を育んだ。中国の影響が強いベトナムでもまた、歴史の古層には古代仏教、ヒンズー教などインド人の信仰が眠っていた。遺跡の帰り、川を下る船で港町ホイアンに向かった。古い港の市場は開放経済で活気に満ちていた。発展するこの国でもまた、庶民の切実な想いとともに信仰もまた深化していくに違いないと思う。
サンスクリット語
 インド古代の言葉。紀元前一〇世紀頃から歴史に現れ、インドで話される諸言語の源流でもある。南伝仏教のパーリー語とともに、仏教経典の原典はこれらの古代語で記述されている。これらを漢語(中国語)で翻訳したのが漢訳仏典。サンスクリット語が東南アジアの諸言語に与えた影響は強く、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどの文字は、これらのインド古典語を元に考案された(これに対しベトナム語は漢字を元にした「チェノム(字喃)」と呼ばれる文字が発達したが、現代ではアルファベットで記述する)。
 仏教とともに日本にも輸入され、日本語の「瓦」「奈落」「塔婆」「檀(旦)那」「ヨガ」などは、サンスクリット語の発音をそのまま借用している。「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」「南無釈迦牟尼仏」などの言葉も本来は、サンスクリット語である。
《巡礼メモ》
チャンパの各遺跡、古都フエ、ダナンなど中部ベトナムへは、ホーチミンを入り口とした方が便利。成田から毎日三便以上、関空から毎日一便。ダナンへは飛行機で一時間半、列車、バスで一泊二日。ダナンからミソン遺跡へはツアーが各種ある。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第八話
●サーンチ仏塔
(インド・ボパール郊外)

 朝早く列車でインド・デカン高原の街ボパールに着いた。駅の朝は喧噪に満ちている。路上の物売りにリキシャ(力車)屋の客引き、外国人目当ての両替屋など、あらゆる職業が道の上にある。お香やスパイス、フルーツの匂い、そして腐敗臭、においだって多様だ。
 インド古代仏教美術の頂点サーンチ大塔を目指し、おんぼろバスに乗る。車体から半身を乗り出した車掌の兄ちゃんが、客をかき集める。約七十キロほどの距離を一時間半、サーンチの村に着く。巡礼宿に旅装を解き暑さを避けてひと休み。涼風吹く夕方、仏塔の丘に歩いて登った。
 ここはインドの仏跡観光地では珍しく静かだ。客にまといつく自称ガイドの青年や数珠売りなどみやげ物屋は少ない。ガンジス流域に密集する仏跡から遠いせいか、観光客もまばらだ。紀元前三世紀、アショカ王が原型を建立し、同一世紀までに完成したサーンチの大塔(第一塔)が目の前に立っている。デカンの大地に根を張りどっしりと屹立している。
 仏教の歴史は、「造塔の時間」ではなかったか、と思う。仏舎利を安置した墳墓が、紀元前に仏塔として完成した。サーンチを始めとして、クシナガラ、バイシャーリー、バールフトなど祖型の仏塔のかたちは、アジアの多様のなかで、それぞれの信仰と習合し変貌を遂げた。チベット・ネパール世界では団子型のチョルテンのスタイル、東南アジアでパゴダ様式、ジャワ島には世界の遺産ボロブドールとなった。仏教は北伝し、中国の多彩な形の層塔に変化、極東の日本では五重塔、多宝塔として崇められた。
 アジアの仏教徒が建立した仏塔には、強烈な特徴が一つある。塔を見上げることはあっても、頂上に登って見下ろす視点は、全く意識されてこなかったことだ。砂漠で生まれた唯一神の宗教と比べるがいい。古代バビロニアのバベルの塔に始まり、イスラムモスクのミナレット、西欧中世の教会・例えばゴシックの尖塔などを経て、現代教会建築の最高峰サクラダ・ファミリア教会まで天上の神に一歩でも近づこうという意志が必ず存在する。神の権威により、塔の頂上から人々を見下ろすことが、権力の象徴へとつながった。
 仏塔の頂上へは上れない。世界の仏塔の原型サーンチ大塔も、日本の鳥居に似た欄楯ごしに見上げるだけである。アジアの歴史のなかでどの権力者が、仏塔の頂上に上がって庶民を見下ろしたか。権力の象徴天守閣と違って、日本の五重塔のなかは空洞だ。仏塔は、仏教の法をたたえるだけに存在する。世界に遍在する仏の真実の教えを顕彰するために、仏教の塔はある。
 夕暮れ時、仏塔の周りの草をはんでいた牛も家路に着き始めた。大塔の東西南北に配された四つの門にはインド古代美術の頂点とされるの浮き彫りがある。著名なヤクシー、ヤクシャーなど守護神の彫刻がある。夕日が門のレリーフを浮き上がらせてきれいだ。ジャータカと呼ばれるお釈迦さまの前世のお話や、その生涯が彫り込まれている。釈尊ははまだ菩提樹などとしてしか表現されていない。仏像が生まれる一世紀以上前の建立なのだ。
 炎熱の日が暮れ、風が心地いい。明日朝、もう一度この丘をのぼろうと思う。
菩提樹
 日本で菩提樹と称される木は、三種類ある。お釈迦さまが、この木の下で悟られたという木は、インド菩提樹(サンスクリット語でピッパラ)でクワ科の常緑広葉樹。悟りの地ブダガヤの大塔脇には、その菩提樹が今も豊かに茂っている。インドではお釈迦さまの時代より以前から、バニヤンなどと共に聖なる木として崇拝されインド各地で見ることができる。日本では生育しづらい。仏像が一世紀にガンダーラ地方(現在のパキスタン)で成立する以前は、お釈迦さまはこの菩提樹として表現された。
 日本の寺院でよく見られる木は、シナノキ科の落葉樹。十二世紀に栄西が日本にもたらしたという。西欧の街路樹でよく見かけるリンデンもまた菩提樹と翻訳される。やはりシナノキ科の落葉樹で、葉の形が三つの菩提樹ともよく似ている。
《巡礼メモ》
サーンチへは首都デリーからボパールへ飛行機を使うのが最も早い。成田・デリー直行便は週三〜四便、関空からも飛ぶ。デリー・ボパール間は約二時間、列車で十時間。遺跡近くには小さな宿が幾つか点在する。

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