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如是我訪アーカイブ
 如是我訪−アジア古寺巡礼というタイトルで季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)に連載し、それをお寺新聞「MOYAi」に転載しています。
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如是我訪─アジア古寺巡礼 第十六話
●炳霊寺石窟
(中国・蘭州市郊外)

 蘭州駅に朝四時半に着く。ホームに降り立つ。吐息が白い。ここは中国・西域の入り口だ。風が乾いているのが分かる。
 インドからパミールの雪山を越え、砂漠のなかオアシス伝いに西域南路、天山北路、天山南路と東西文明を結ぶ道が続く。敦煌・陽関で三つの道は一つになり、砂漠と祁連山脈に挟まれた隘路を行く。それが河西回廊と呼ばれる東西文明の要路、仏教伝来の道である。回廊の東、中華世界の辺境に蘭州がある。
 この街に降り立ったのは、荒地の絶壁にある炳霊寺石窟の仏たちに会うためだ。宿に急ぎ仮眠して昼、公安局で遺跡のある永靖県の旅行許可を取る。炳霊寺石窟寺院、中国では最も古い窟院である。五胡十六国時代、四世紀から唐代にかけて連綿と開窟と造仏を繰り返した。街から西南に七十五キロメートル、劉河峡ダムの人造湖をさらに五十キロ、一木一草もない奇岩が屹立する黄河の谷を遡航しやっとその仏にまみえることができるという。街で聞くと、ダムサイトまでバスが一日に三本、渡し船は不定期だという。夕食は道ばたで羊の串焼きシシカバブと白酒(パイチュウ)、体が温まる。たどり着けるか不安のままひと夜を過ごす。
 翌朝、次の目的地敦煌への列車の切符を予約しに駅へ。昼過ぎに街で永靖県行きのバスをつかまえた。乾燥した大地を横断する甘新公路をどんどん山に突き進む。羊の群れとそれを追う子ども、あたりが淋しくなってくる。三時過ぎ村に入る。永靖県招待所という貧しい宿で荷を置く。そのまま明日の渡船の交渉に黄河に走った。三隻ほどの渡しがのんびりと浮かぶ。船頭が明日も船は動くという。仏たちに会えると心底ホッとする。夜、イギリス人のカップルと話し込む。暖をとるものが無く寝袋の上に宿の毛布を掛けて眠る。
 次の日の朝食は、蘭州で仕入れてきていたパンのみ、カップルと分けて食べる。船は十時に出た。解放軍の軍人家族十数人と日英の外国人旅行客を乗せて、翡翠のような深緑の湖面を、ゆったりと進む。日差しは強いが風が冷たい。ダム湖を奥へ奥へと行く。山には緑がほとんどない。遠く、わずかに残る草の周りに芥子粒のような羊が群れる。稜線に羊飼いの小さな人影が見える。日が高くなる。剣のような奇峰を回りこむ。水平線の向こうに大仏が見えた。
 石窟は、大寺溝と呼ばれる岩壁に長さ二キロにわたって広がる遺跡である。窟が集中する西岸には、南北三百五十メートル、高さ五十メートルにわたり西秦から隋唐代まで百八十四の窟がある。石仏六百八十二体、塑像八十二体が確認された。河西回廊各地に点在する石窟寺院で、敦煌・莫高窟と並んで規模が大きい。仏たちは、大らかな顔をしてらっしゃった。高さ二十七メートルあるという巨大な弥勒仏に巡らせた階段を上った。周りに小さな祠が掘られ、そのそれぞれに仏像が鎮座される。仏の光背に、椰子の木が描いてある。お顔がどこか中央アジアの雰囲気を漂わせている。中華世界の版図を離れ西域に入ったなと実感する。帰途、船を下りるとこの日最後のバスが出たあとだった。船で一緒だった解放軍のバスと交渉し同乗させてもらう。ガードレールもない夕暮れの深い谷を、人民軍の赤い頬をした若い運転手と饅頭をほおばりながら下った。
石窟寺院
 仏教の石窟寺院は、仏像の発生よりも古くインドではBC一世紀に発生したという。中央アジア、中国で四世紀頃から盛んになり、十四世紀まで開窟された。建築物と違い破壊に強く、往事の信仰のかたちや建築様式など文化を伝え、アフガニスタンのバーミヤン、インドのエローラ、アジャンタ、中央アジアの敦煌、キジル千仏洞、中国の龍門、雲崗と世界的な第一級遺跡が多い。敦煌のように近代になって再発見され、史料の宝庫となった石窟も多数存在する。
 実際に世界各地の窟院を訪れてみると、共通の事実に気付く。街から遠からず近からず、近くには必ず河や湖が流れる。古代・中世の僧侶が、単にここで仏道修行しただけでなく、俗空間である市街近郊に存在し、水が近い事実は、長期間にわたって僧が生活する場であったことを物語る。
《巡礼メモ》
 成田発直行便の他、地方からもバンコクなど乗り換え便がある。平成15年末現在、民族紛争で最北部の都市ジャフナー一帯は外務省から渡航中止の勧告が出ている。キャンディへはバス、鉄道とも充実している。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第十五話
●タクティ・バイ寺院
(パキスタン・ガンダーラ地方)

  中国とパキスタンを結ぶクンジェラブ峠(四九七六メートル)を八六年に越えた。外国人旅行者に国境が開放されて半年後、西域の町カシュガルを出て、いたるところで崖崩れを起こしている未舗装の悪路を、パキスタン商人がチャーターしたオンボロバスに揺られ、パンクとエンジントラブルに悩まされ、野宿しながら二泊三日、雪嶺の美しさに励まされつつ国境を走破した。バスには食料のニワトリと貿易品である中国の生活物資、屋根の上には自転車五台も載っていた。カラコルム山脈を越えるタフな旅で親しくなった商人は自らの国を「ハード・イスラム・カントリー」(熱烈なイスラム教国)と紹介した。峠を下ると、モスクからコーランの響きが聞こえ、商人たちも旅の途上バスを停めメッカの方向に礼拝した。
 カラコルム越え、パミール越えは古来、仏教東漸の道である。そのインド側の出発点ガンダーラの地(パキスタン北部)は、文明のクロスロード、あまたの民族、宗教が興亡した。インダス文明の神々、インド・バラモン教、ゾロアスター教、アレキサンドロス大王の東征でギリシャの神々の神殿が建ち、紀元前二世紀ギリシアの王メナンドロスは仏教の聖者と対話した(経典『ミリンダ王の問い』として現存する)。紀元前後、ガンダーラのペシャワールに都を定めたクシャン王朝の御代、カニシカ王の治世には諸宗教のるつぼから、仏教興隆の中心地となった。仏像はお釈迦さまの入滅後、五百年あまり経って初めて、この地で生まれた。多様な文明にもまれ魅力を増した仏教は、国際性を獲得し、シルクロード世界に伝播し始めた。
 信仰の高揚は、雪山の荒涼たる峠を越え、砂漠をわたって後漢帝国にもたらされた。のち五世紀には法顕が、七世紀には玄奘三蔵が、経の原典を求めこの険阻な道を歩いた。世界を揺るがすイスラム原理主義揺籃の地の一つとされるここに、アラーの神の信仰が定着したのはずっと後世のことである。
 十数年ぶりに、灼熱のガンダーラを訪れた。ガンダーラ美術の代表的な遺跡タクティ・バイ寺院は、車でペシャワールからスワート街道を北上、二時間ほどで着く。車を降りて尾根を回りこむと、小高い岩山の中腹に姿が現れた。下から見上げると、砦または古城の趣である。この遺跡は一八六九年、イギリス軍によって最初に発掘された。優美なガンダーラ仏を含む数百の石彫品が、ラホールやペシャワールの博物館に運び込まれ、世界の注目を浴びた。薄い板石を重ねて造った階段を上ると、大小のストゥーパ(仏塔)が立つ中院に出る。北に多数の比丘(僧)が生活した僧院や、読経の声が響いたであろう講堂、南には六メートル四方の仏塔の大基壇が残る塔院が広がる。紀元前一世紀から七世紀まで営々と伽藍が造営されたという。あまたの僧侶たちが戒律の生活を続けながら、ガンダーラの仏たちに香華を手向け一斉に経をあげる風景が蘇る。
 紀元前後、この寺が隆盛を極めたころ、極東の日本はやっと文化の黎明の時を迎えたにすぎない。パミールを越え、天山山脈の山すそをたどり、黄河を下った決死の旅人たちによって仏の教えは伝わった。日本に仏教がもたらされたのはお釈迦さまの時代から千年近く経って、仏像の発生から数えて五百年後のことである。
ガンダーラ仏
 お釈迦さまの入滅後、五〜六百年の間、仏像は存在しなかった。車輪(法輪)や菩提樹、仏足石で表現された。ガンダーラ地方でおきたクシャン王朝で中央アジア、ギリシャ、インドの各文明のるつぼのなかから二世紀初め、仏像は誕生した。有名な釈尊の苦行像(ラホール博物館蔵)に見られるように、現実的・具体的な表現でギリシャ文明の味わいも強い。釈迦像、仏伝図が主流だが、菩薩など大乗仏教の仏たちもある。多彩な仏像様式を生み出しその後の仏教美術に決定的な影響を与えた。
 ガンダーラ仏は、独立した仏像はまれで、仏塔や僧院の壁面に直接造立された立体的な浮き彫りである。遺跡はペシャワール周辺に集中し、多くは山岳寺院だが、シャンカルダール仏塔(高さ二七メートル)のように巨大仏塔も散見される。
《巡礼メモ》
 日本から首都イスラマバードへは現在、直行便はない。北京、バンコクまたはカラチで乗り換える。イスラマバード〜ペシャワールはバスで四時間ほど。クンジェラブ峠越えのツアーは日本の代理店でも扱う。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第十四話
●ブッダガヤ大塔
(インド・ブッダガヤ)

 「これがあるとき、かれがある。これが生ずとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがない。これが滅するとき、かれが滅する」(原始仏典の定型句)。
 ブッダガヤはお釈迦さまのさとりの地である。ものごとがあるということは、ものごとが他のものに縁って成り立っている。人は、人やものとの関わりなしには生きてはいけない。仏教の根本である縁起の理法を、この地で証得されたといわれる。お釈迦様はこう自問された。「生の苦しみは何を縁として起こり、そして消滅するか」。
 今、ブッダガヤには世界の仏教徒が巡礼に訪れる。インドから、チベットから、経済発展を反映して東南アジア諸国、シンガポール、中国、台湾の中華世界から、そして韓国、日本から、仏教の始まりの場所をめざす。街にはアジアの諸言語が飛び交い、顔も服装も皆違う。しかしそれぞれ仏教の信仰を持ち、固有の礼拝の仕方で、大塔の周りを回る。その下で悟りを開かれたという菩提樹のもと、様々なことばの経を読み、礼拝を繰り返す。体を大地に投げつけるチベット式の五体倒地、線香を持ちながら礼拝する中国仏教。十数年前までは小さな村にすぎなかったブッダガヤが、今やインド経済の成長もあって、ちょっとした国際都市になっている。
 仏教には中心がない。確かにお釈迦さまのさとりから、すべてが始まり、ここブッダガヤが仏教の原初の地である。縁起といい、法、無我、中道、慈悲、戒といいお釈迦さまの教えは数多い。しかし仏教はその淵源から、あらかじめ形式的、排他的な教義をたてることなく、現実の人間をあるがままに見るという姿勢を大切にした。人間の理法とは、固定したものではなく、いま生きるこの人間に即して法が説かれた。
 仏陀以来、二千数百年の時を経て、土地の神々と習合し、民族固有の思想と対決しながら、多様な仏教が世界に広まった。チベットの濃密な密教世界と、弘法大師空海が請来した真言密教が、さらに例えば戒律を厳格に守り森で瞑想する東南アジアの上座部仏教と、自らを愚禿と称し煩悩を深く見つめて妻帯した親鸞の浄土教が、誰が外見上、同じ宗教だと思うだろうか。しかしそれでも、ブッダガヤでは大聖釈迦如来・お釈迦さまに帰依し、その教えをそれぞれに信じる人々が集い、今日も大塔の周りを共に回り、合掌して礼拝を繰り返す。一のなかの多、多のなかの一、仏教は異端を許容し、仏教徒は共に生きることを最も大切だと考える。
 大塔のもとに座って、もう一つの世界的な聖なる土地エルサレムのことを思う。同じ一つの神をいだくユダヤ、キリスト、イスラムそれぞれの信者が、この街に集う。しかし街には装甲車が行き交い、ピンと張りつめた空気の中にテロリズムに怯える人々の気分を強く感じた。神という中心を持ち信仰にあれかこれかを迫る砂漠の諸宗教と、縁の関わりのなかに空を説き、多様性を許容する仏教の差異を思う。
 お釈迦さまは、ブッダガヤの風景を見てほほえまれるに違いない。それぞれの信仰を持って「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」(ありとあらゆる悪をばなさず 善なるを行いそなえ みずからのこころを浄む これぞ実にものもろのほとけの教え 『法句経』より)の教えを実践なさい、と。
仏跡
 お釈迦さまの生誕の地ルンビニー(現在のネパール)、悟り(成道)の地ブッダガヤ、そして最初に説法をされた(初転法輪)サールナート、お亡くなりになった(入滅)クシナガラ(いずれもガンジス川流域の北東インドに点在する)を四大仏跡と称している。
 他にも古代マガダ国の首都で釈尊が長く滞在して教えを広めた王舎城・ラジギール、祇園精舎が存在した場所とされる舎衛城・シュラバースティ(サヘート・マヘート)などお釈迦さまの遺跡は数多い。古代王国マウリヤ王朝のアショカ王は、王柱を建て釈尊をたたえると共に、諸宗教の相互の尊敬、法(ダルマ)による社会のあり方を示した。仏跡はインド固有のヒンズー教、ジャイナ経の聖地とも重なり、多様な宗教の信者が相集っている。
《巡礼メモ》
 インド仏跡参拝には、首都デリーを経由した方が便利。デリー〜成田直行便(週5便ほど)ほか、バンコクなどで乗り換えてカルカッタからブッダガヤへ鉄道で行く。カルカッタやデリーからは鉄道で一泊必要。

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