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寺だより「MOYAi」
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如是我訪アーカイブ
 如是我訪−アジア古寺巡礼というタイトルで季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)に連載し、それをお寺新聞「MOYAi」に転載しています。
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如是我訪─アジア古寺巡礼 第十九話
●ガンダン寺
(モンゴル・ウランバートル)

 十年ほど前、旅の友人A君から手紙が舞い込んだ。「モンゴルで乗馬の訓練をして、馬で緑の大草原を横断、その後中央アジアの砂漠地帯をラクダでたどり、カスピ海に着いた」とあった。エアメールの便箋も封筒も、長い旅で汚れていた。手紙は極東の豊かな国の日々の暮らしに埋没していた僕に、強い印象をもたらした。八〇年代初め、彼にスペイン・マドリードで最初に会ったときは、サハラ砂漠横断の準備に奔走していた二十歳そこそこの青年だった。さぞ、たくましい冒険家となっているだろう。
 中央モンゴルの大平原で、初めて馬に乗った。数十キロ先まで見通せる緑の海原で車を降り、遊牧民のゲル(天幕住居)に立ち寄って馬をあてがわれた。日本の競走馬より小振りだが、元帝国・騎馬軍団の末裔だ。手綱とあぶみ(鐙)の使い方に手ほどきを受け、出発である。小一時間で馬に慣れ、遙か彼方の町を目指す。拍車をかけ、並足から早足、そして全力疾走のギャロップだ。夕暮れ時、家に帰る羊の群れを横切り小川を渡り、内股がギシギシ痛むのも忘れ、走る。馬と一体になって風を切る。爽快である。
 この国では、今も天幕生活、人馬一体の遊牧が基本である。寺も一九世紀終わりまでは、ゲルによる移動寺院(フレー)であり、チベット仏教による活仏が、部族の聖俗双方の権力を握っていた。馬に乗った夜、ゲルに泊まった。晩秋、夜は冷える。薪ストーブの火が消え、零下十数度まで気温が落ちた。明け方、布団にくるまりながら、巨大なゲル寺院で僧侶が読経する夢を見た。数百キロの範囲で、移動する寺、仏像も経典も数百人といわれる僧も、何年かごとに移動する遊牧民の寺。この地ではかつて寺も馬で旅をしていた。
 ガンダン寺は、その旅するゲル寺院が一八三八年、最後に移動した際に、ウランバートルに建設されたモンゴル仏教の中心地である。一九三〇年代の社会主義政権による仏教弾圧と僧侶虐殺の時代も、国家監視の下、唯一、宗教活動を許され生き延びてきた。本尊である巨大な観音菩薩像は、破壊され残骸もソビエトに持ち去られたが、十五年ほど前、再建された。境内にある宗教大学も再開され、数多くの僧侶を輩出し始めている。
 寺にお参りした。国営デパートや屋台が建ち並び、トロリーバスが行き交う繁華街を歩き、北京・天安門広場に似た国家中枢が集まるスフバートル広場を横断し、未舗装のほこりが舞う道を登って、寺に着く。チベット語でお経を上げている。バターの油のロウソクが揺れ、お香のにおいもチベットと同じだ。一三世紀半ばにチベット仏教が、この国にもたらされ、蒙古帝国(元)の世祖フビライ=ハンの時代にはアジアの東半分を仏教の世界として君臨した。これ以来、チベット仏教が深く人びとに信仰されている。境内では、歴代の活仏像が立ち、地方から上京した民族衣装の人びとが写真に収まり、五体投地の礼拝をしている人もいた。
 二〇〇二年、北京政府と対立し亡命中の法王ダライ・ラマが、この寺を訪れ大規模な法要を行い、熱狂的な歓迎を受けた。しかし、中国はこれに対抗し、モンゴルの生命線シベリア鉄道に向かう鉄道を、中国側の国境で二日間、封鎖した。アジア仏教は、いまだ政治に翻弄される運命にある。
ダライ・ラマ
 チベット仏教の法王の俗称である。十四世ダライ・ラマは、戦後の動乱期、チベットの首府ラサを共産党軍に追われ、インドに亡命した。精力的に世界中を布教に歩き、平和の教えを説く。ノーベル平和賞受賞。
 ダライ・ラマの「ダライ」は、モンゴル語である。十六世紀、チベットの最初の活仏(輪廻思想に基づき菩薩の生まれ変わりとして生まれた転生者)にモンゴル王が贈った称号で、「大海」という意味だ。
 ダライ・ラマの教派ゲルク派は歴史的にモンゴルと結びつきが深く、十六世紀以降ダライ・ラマが、モンゴルの諸王の任命権を持った。今世紀初頭、清朝からの独立運動が起き八世活仏を元首として「ハルハ臨時政府」が設立されたが、中露に打倒され、その後共産革命そして民主化、自由化という道をたどる。
《巡礼メモ》
 ウランバートルへ成田空港から週二便、直行便が就航する。他にソウル経由は毎日運行、北京経由も便利。旅行自由化で外国人観光客も増え、取り扱い旅行社も多い。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第十八話
●シー・サッチャナーライ
(タイ・スコタイ郊外)

 タイ北部の古都チェンマイの旧市街で車を借り、世界遺産の街スコタイを経て帰途の空港・ピサヌロークまで、北部タイの丘陵地帯を縦断する。合計約三百四十キロのドライブだ。目的はその途上、十三世紀スコタイ王朝の第二の都市シー・サッチャナーライにある仏教遺跡を訪れること。早朝、郊外のフランス資本の巨大スーパーで、地図と食料を買い込んで出発した。カーステレオから甘いタイ製のポップスが流れている。
 フロントガラスから見える風景だけ切り取ると、タイはもはや経済的には十分に発展した、と思う。小さな街にもコンビニエンスストアがあり、二車線道路のそこここにサービス満点のガソリンスタンドが点在する。買い出し客を満載した乗合トラック・ソンテウや名物タクシー・トゥクトゥクもめっきり少なくなった。伝統的な高床式の農家が減り、小ぎれいな中産階級の分譲住宅の建設が進む。田舎の道ばたには必ずあった飲み水をためる素焼きの壺も今、あまり見かけない。
 峠を二つ越え、チャオプラヤ川上流のヨム川沿いにタイ中央平原を南下し、昼過ぎに遺跡に着く。十三世紀から二百年ほど続いた遺跡群である。街から二キロほど離れた川辺の丘陵地に遺跡は広がっていた。歴史公園として整備されつつあるが、大遺跡スコタイと違い、観光客も物売りも少ない。畑のそばに十三世紀の古寺がうち捨てられたように建つ。ジリジリとした暑さのなか、車を降りて公園のゲートをくぐる。中心に仏塔がありその両脇に柱だけの僧院跡があった。周りには多くの小さな仏塔が並ぶ。廃寺の静けさが、洗練された様式の美しさを倍加している。フーッと深呼吸する。サフラン色の僧衣を着た小僧たちの集団に出会った。路傍の仏に経をあげている。高度な資本主義時代に入りつつあるタイで仏教はどう変わるのだろう。数人の女性のグループに出会う。伏し目がちに合掌して、「コップクン・カー」とあいさつする。タイ女性の合掌姿は官能的ですらある。
 アジアは、てんでにバラバラだ。体制も習慣も言語も宗教も、何もかも違うようにみえる。中東のイスラム、そして欧米国家群のキリスト教、そんな主軸がない。しかしそれでも仏教はアジアの共通言語ではないか。合掌という祈りとあいさつのかたち、剃髪した僧侶。土地の神々と習合し、民族のエートス(習俗)に合わせて変容したそれぞれの仏教とその信仰だが、仏教国の人々と親和性を感じてしまうのは、私だけではあるまい。無常・無我といい、縁起といい、中道といい仏教の基底音が、おのおのの文化に流れている。お茶も味噌、醤油も、木と土と紙でできた高い床の家や帯で締める和服だって、それらのかたちの変奏曲がアジアのどこにでもころがっている。日本人を裸にすれば、タイ人もチベット人も、モンゴル人も変わりはしないのだとさえ思う。
 夕暮れが迫る。江戸時代初期、日本で宋胡録(すんころく)として名をはせた名陶の故郷・スンカロークの美術館を経て、スコタイのゲストハウスに宿を取る。
 宿の窓から、水牛が農夫に追われて家に帰っているのが見えた。天井の電灯には、ヤモリが虫たちを狙っていた。タイの風景だ。明日はバンコクを経て、日本に帰る。
スコタイ遺跡
 タイ中部の巨大遺跡スコタイは、バンコク北部のアユタヤと並んで、タイを代表する仏教遺跡である。スコタイ王朝は、タイ系の政権としてははじめて、十三世紀初めにクメール政権(現在のカンボジア系)を破り、王国を建設した。現在のスコタイは、その首都の遺跡。無数の仏像や仏塔、僧院跡があり、タイ国立公園として、修復・整備が進み、世界中から観光客を集めている。シー・サッチャナーライは、その副王都。王権は、スリランカから上座部仏教を積極的に取り入れ、現在、スコタイ仏と称される様式の仏像がタイ全土にのこされている。王朝は、十五世紀に滅ぼされ、アユタヤ王朝に変わった。
《巡礼メモ》
 シー・サッチャナーライは、スコタイからバスで一時間程度。飛行機は、バンコク〜ピサヌローク間に毎日数便が就航。同空港からバスで二時間かかる。成田だけでなく数都市からバンコクへ就航している。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第十七話
●ロン・ソン寺
(ベトナム・ニャチャン市)

 ベトナムへは中国南西部の都市・昆明から入った。単線のディーゼルカーに乗り一泊。翌朝、国境の町河口からベトナム側のラオカイへ国境の橋を渡る。国を越えると言語も貨幣も文化も宗教も一気に変わる。ホン(紅)川沿いに列車で首都ハノイに出て、汽車とバスで細長いベトナムをずっと南下した。九四年のことだ。アジアの喧噪と混乱が色濃く残っていた。
 グエンに会ったのは、中南部の海辺の街ニャチャンだった。旅に疲れて、海の見える安宿で少し長居した。旅に出るとよく子どもをつかまえて、地元の言葉を教えてもらう。「123」「これいくら?」、子どもは飽きずに何度も、珍しい外国人相手に教えてくれる。そんな子どもの一人だった。確か小学校六年ではなかったか。漁師の子、学校にはたまに行くという。彼の仕事は外国人相手の絵はがき売り。日本円換算百円で売って、売り上げの九割は親方に取られる。平均二十円の収入をあてて、屋台でフォー(ベトナムのうどん)を妹と分けて食べる。それが、彼らの日課である。
 ヒンズー教寺院へ兄妹二人を、借りていたホンダのカブ号の前後に乗せて行く。入り口で地元の子どもはお断りという。彼らと共に寺に入らずにいると、これが二人の信頼を勝ち取ったようだ。丸二日、子分気取りで、バイクに乗ってきた。
 小高い丘の上に建つロン・ソン寺は、十九世紀に創建されたベトナム人に人気の大仏寺である。近年修復された真っ白い大仏様のお顔が、街の至るところから拝むことができる。六〇年代初め、当時の南ベトナム・ゴ=ディン=ジエム政権の戦争遂行に抗議して、焼身自殺した僧侶らの碑がある。社会に深く関わりを持つ現代仏教の原点である。
 境内に入り、子どもらと主殿裏手の階段を大仏をめざし上る。石段の脇にはホームレスの一家がいた。ボロをまとった子どもと親の数人がたむろしていた。グエンが突然、なけなしの千ドン札(当時の日本円換算で約十円)を、両替してくれという。ボロボロの百ドン札を握りしめた彼は、うち二枚を、その物乞いの男に当たり前のように投げるではないか。
 アジアの仏教寺院には概して物乞いが多い。そして、人々は当然のごとく極貧の彼らに喜捨をする。寺は共に生きるものたちの空間である。富めるものは貧しきものたちへ、貧しきものも貧しき者たちへ。私もアジアの喧噪の街角で何度も芸人や浮浪者や、そして手足を失った赤貧の彼らに、金を投げたことがある。金を投げることの欺瞞に躊躇したこともある。人が人に施すことの難しさが、身に染みて分かっているつもりである。
 しかし、グエンの行為は何なのだ。何ごともないように、自ら稼いだわずかの金から他に分かち恵む。金満日本で子どもの誰が、他人に「施す」ことを本当に知っているというのか。原始仏教以来の徳目は「布施・愛語・利行・同事(同悲)」である。施し与え、慈しみの言葉を発し、他のために行い、人の目線にたち考える。グエンにしてやられたと思う。
 階段を上がると、高さ十メートルもあろうか、白い大きな仏様がゆったりとお座りになっていた。キーンと晴れた空のもと、南シナ海の真っ青な海が広がっていた。
ベトナム仏教
 ベトナムの人口のうち八割が仏教徒である。他の東南アジア諸国と違い大乗仏教寺院がほとんどを占める。日本と同じく漢訳経典をベトナム語読みで音読し、位牌は漢字で書かれた。阿弥陀信仰、念仏信仰も深く、「南無阿弥陀仏」は「ナモアジタファット」と発音され、祈りの言葉だけでなく、日常のあいさつ言葉の一種ともなっている。
 旧南ベトナムの地域では、二十世紀になって急激に仏教が発展し、ホーチミン市ではそれまで二百か寺程度だったのが、第二次大戦後三十年間で千か寺近くになり、社会参加する仏教(Engaged Buddhism)として発展した。行動する仏教者として日本でも知られるようになったティク=ナット=ハン師ほか世界的活動をする仏教者が出現している。
《巡礼メモ》
 日本からベトナムへは、成田〜ホーチミンの直行便週十六便、関空からも週九便就航。ハノイへも同六便、同二便ある。ニャチャンへは、ハノイ、ホーチミンから空路がある。鉄道ではホーチミンから九時間、バスが便利で速い。

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