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寺だより「MOYAi」
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如是我訪アーカイブ
 如是我訪−アジア古寺巡礼というタイトルで季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)に連載し、それをお寺新聞「MOYAi」に転載しています。
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如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十二話
●シュエダゴン・パゴダ
(ミャンマー・ヤンゴン)

 シュエダゴン・パゴダは、仏教国ミャンマーの統合の象徴である。空港の雑踏を抜けて、首都ヤンゴンの中心部へ南下すると、小高い丘の上に高さ百メートル近い大仏塔が出現する。パゴダ(仏塔)の国ミャンマーでも最大級、数百キロもの金箔で覆われ、真っ青な空に屹立する尖塔部(傘蓋)にはダイヤモンドやルビーがちりばめられている。この国の人に問えば誰でも、この大仏塔が釈尊まで遡るという聖髪伝説の由緒、歴代の大王が何度も増広した歴史を、誇りを持って教えてくれる。
 両側に土産物屋が並ぶ参道を上る。花や線香、紙製の傘を買い求め、丘の上に出る。塵一つ落ちてない聖なる空間である。大仏塔の周りには無数の小仏塔、仏像が並ぶ。四方の仏像の前には、数珠を手に瞑想するもの、護呪のお経「パリッタ」を唱えるもの、線香を手に礼拝するものらで混雑している。
 十一月の満月の日、灯明祭「ダザウンダイン」には、出家するお釈迦様のために、母堂が一晩で衣を縫ったという故事にならい、境内の仏像の数だけ衣を織る。多くの女性たちが、夜を徹して機織りを競うという。境内には観覧車、宝くじ売り、芝居小屋、手相見などが出て、この日の夜だけは聖なる空間が、縁日の雑踏に変わる。
 街を歩いていると、路地の向こうで大きな僧院に迷い込んだ。数百人の小僧が、隊列を組んで托鉢に出ようとしていた。剃髪した小学生程度の小僧も同様に裸足で並んでいる。小豆色の僧衣をまとい、黒く大きな鉢を手に、小さなグループに分かれ、無言で路地に消えていった。この国では、托鉢僧に、炊きたての飯を施与することは最も日常的な功徳である。
 小僧を追っていると、きらびやかな隊列に出会う。金銀の冠をつけた王子、王女の格好をした子どもたちが、馬車で寺に向かっている。楽隊が先導し、象の飾り物も並び、親類縁者とおぼしき大人を従えた一大ページェントだ。得度式だという。この国では六歳から十二歳までの間に必ず、僧院生活を体験する。街のホールなどで、家族から出離する式で祝福され、寺にはいると一転、厳粛な得度の式を行う。髪を剃り、黄衣を授与され、王子の服から着替える。仏・法(教え)・僧(教団)への帰依を表すパーリー語の経を唱え、出家の名を授かる。僧形になった小僧を両親でさえ合掌三礼しひざまずいて、聖社会に送り出すのである。翌日からは、仏を中心にした出家の生活、戒を守り仏典を学び瞑想する生活が始まる。日の出前に起きて、食事は正午までに終わる生活だ。子どもにとっては劇的な変化だろう。しかし、国民的ともいえる得度の体験、一生のうちに三度は僧院で修行生活を送るという宗教生活が、仏教国家の根幹部を支えている。
 夕暮れ時、再度シュエダゴン・パゴダにお参りした。日中、巨大な太陽に照らされて裸足で歩くのが難儀な境内の土間も、今はひんやりとして気持ちがいい。参拝客がならす鐘の音が響く。「ブッダム・サラナム・ガッチャーミ……」。この国の僧侶をまねて、パーリー語の三帰依文(お経)を唱えてみた。隣の人がほほえんでくれた。互いに仏教徒である安心感、仏にひざまずくことの安堵、うれしさ、そんな感じにとらわれている自分に気付いた。
パーリー語
 サンスクリット語と共に、インドの古代の言語である。特に、スリランカ、タイ、ミャンマー、ラオスなどで信仰される上座部仏教の経典に使われる。パーリー語による大蔵経は仏教研究の基本文献である。
 現代の仏教学によると、お釈迦様は修行した東インドのマガダ地方の言語で説法教化されたといわれるが、入滅以後、比較的すぐ紀元前三世紀ごろには、パーリー語で経典が編纂され始めたという。
 ブッダム・サラナム・ガッチ ャーミ(帰依仏)
 ダンマム・サラナム・ガッチ ャーミ(帰依法)
 サンガム・サラナム・ガッチ ャーミ(帰依僧)
 このパーリー語による三帰依文は、日本でも唱えられることがあり、いわば国際的な仏教共通のお経として知られている。
《巡礼メモ》
 ミャンマーの首都ヤンゴンへ、日本からの直行便はない。隣国タイのバンコク乗り継ぎが一般的である。シュエダゴン・パゴダは、ヤンゴン市街地北、市内各所から遠望できる。早朝から夜九時まで参拝可。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十一話
●仏国寺
(韓国・慶州市)

 考えてみると、アジアへの古寺巡礼は、滞在通算八百日を超えていることになる。眠れない夜、独り毛布にくるまり、旅の一々を思い出す。どこに泊まった、寺はどんなだ……。旅の記憶がまるでトンネルのように、時に沿って一本の光の束となる。トンネルの壁から寺のパノラマが展開する。寺参りの繰り返し、旅の不安や昂揚感、においや太陽や風、そんな記憶が立ち上る。非日常の旅の記憶は、大脳に深く刻印される。
 仏国寺にはこれまで三度お参りした。最近の旅は冬の終わり、釜山から車を走らせた。高速で一時間ほど、古代新羅王朝の都・慶州に着く。観光客の多い市内を避け、街区から離れた山中にある門前の巡礼宿で旅装を解いた。六畳ほどのがらんとした部屋に、テレビがぽつんと置いてあった。赤と黄色の布団の色が目に生々しく残っている。オンドルが暖かい。
 韓国現代仏教は「教禅一致」といい、仏教の総合教学である天台の教えと禅宗が融合した信仰である。しかし、慶州には喪われた新羅浄土教の跡が濃く残っている。
 統一新羅・文武王(661-80)の治世、元暁という高僧がいた。この僧は、踊りながら村から村へ念仏を称えて歩いたという。一遍上人(1239-89)の念仏踊りを彷彿とさせるではないか。中世日本の念仏聖のような僧もいた。「新羅の世、慶州の南山、避里村に避里寺という寺があった。そこに名もない異僧が住んでいた。常に阿弥陀仏を念じ、念仏は遠く街中まで聞こえたという。声朗々として、上下無く、人は念仏師として尊敬した」という記録がある。またこんな往生歌も残っている。
生死の道はとどめえず、行くとも言えで逝くならめ。秋告ぐ風に、ここかしこ、枝より落つる木の葉はも、いずち行くやは知りがたし。さあれ、行きつく果ては弥陀浄土、また逢う日もあらめ、道を修めて期(とき)待たん。=金思?訳
 日が西に傾くころ、寺へお参りした。大木の陰に昨夜の雪が残っている。坂を上り、門を幾つかくぐる。正面に二段構えの橋と、基壇の上にそびえる二つの門が見える。新羅浄土教全盛の八世紀中葉に創建された仏国寺の、最も有名な紫霞門と安養門が左右にそびえる。韓国で三大寺刹というと、仏舎利をまつる通度寺、大蔵経を有する海印寺、修行道場である松広寺だが、それにもまして信仰をあつめるのがこの仏国寺だ。
 右をあがると釈尊をまつる大雄殿(本堂)、奧に講堂(無説殿)、さらに階段を上ると観音殿が建つ。ところがこの寺では左の安養門の向こうに、本堂と同格の阿弥陀堂があるのだ。ここ韓国で禅の教えに交わりながら、念仏信仰が今も続く証左である。
 夕暮れ時、参道を下り屋台でキムチを肴にマッコリ(濁り酒)をいただく。老いに差しかかったら、長い巡礼旅に出たいと思う。人生の店じまいのころ風狂の旅に出ることができたらどんなに幸せかと思う。出発までの苦悩と、異国に我が身をほうる哀しみと、舞い上がるような至福感。寺を一つひとつ巡る繰り返しの旅、仏に出会うための困難な旅。西方浄土に往生する歴程とどこか似ていないか、ほろ酔いの頭でそう考える。
天 竺
 釈尊がお生まれになったインドの古称。古来、中国では三蔵法師玄奘を始め、国禁を犯し天竺へと巡礼し、仏教を学び経典を請来した僧は多い。日本では古代から中世にかけて明恵(1173-1232)ら渡天竺を志した高僧は多いが、いずれも果たしていない。
 朝鮮の仏教史をひもとくと、天竺行きを果たした幾人かの僧侶に出会うことができる。代表的な存在に新羅の慧超(704-?)がいる。慧超は海路、インドに渡り北西インドからバーミヤン経由で唐の都長安に帰還した。その著『往五天竺国伝』は、散逸して現存しないとされていたが、二十世紀初頭、フランスの東洋学者ペリオが敦煌で発見、千二百年の時空を超えて存在が確認され、玄奘『大唐西域記』と並ぶ印度、中央アジア史研究の基礎文献となっている。
《巡礼メモ》
 慶州へは釜山から高速バスが最も便利、約一時間で到着する。釜山へは空路、成田、関西、福岡空港などから各1日1─4便就航中。ソウルからは高速鉄道セマウル号で四時間半で到着する。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十話
●バガン遺跡
(ミャンマー中部)

 十二世紀に隆盛を誇ったビルマ人の大仏教都市遺跡バガンへは、ミャンマーの旧都マンダレーから船で行った。朝まだ暗い四時、セットしておいた目覚ましが鳴り、急いで旅装を整える。安ホテルを飛び出し、道で地元の人びとが「マツダ」と呼ぶ軽四輪タクシーをつかまえ、港へと向かう。アンダマン海へ注ぐエーヤワディ(イラワジ)河は、この国の大動脈である。河口から一千キロ近いここでも、大きな船が行き交う。港は早朝から、人びとが忙しく立ち働いていた。バガンまで高速船で八時間の船旅、六時半、定時に出航した。
 六月、雨期の始まり。乾燥した大地に時折、スコールが降り、河の両側のみどりが少しずつ濃くなっているのが分かる。デッキに立つと朝の風が心地いい。
 なぜアジアの仏跡ばかり訪れるのだろう?と自問する。北はモンゴルから南はインド南端までアジア中に散在する仏教遺跡。早朝、托鉢にまわる小僧たち、熱心に祈る人びと、サフラン色の僧衣に身をまとい修行に明け暮れるテラワーダ(上座部)仏教や厳しい自然さらに国際政治と戦うチベット仏教、さまざまな変遷をへながらも今ここに生きている仏教に出会うとハッとすることがある。仏陀以来の信仰が生きているのだと。それだけではない。そこに何かしら日本仏教との親和点をみつけて安堵することもある。
 「仏陀以来」と書いた。しかしそれぞれの信仰の内実へ、少しばかり踏み込むと、少し違う風景が現出する。それぞれの地域の仏教は、土地の信仰と混交している。ここミャンマーでは精霊神「ナッ神」という民間信仰と分かちがたく仏教はつながっている。中国では老荘思想、道教の影響が強く、その仏教を輸入した日本では、元来の自然信仰、先祖信仰と相まって、仏陀の仏教とはかけ離れた宗教となり、明治以来の近代がさらに大きな変容をもたらした。
 しかし、それでもいいのだと思う。仏教は二千年の間、時代の思潮とともに変わり、土地の人々とともに教義に重大な変更を加えながら、人類の生そのものに強い方向性を与えてきたのだから。船は午後二時過ぎ、パガン遺跡近くのニャンウー村の埠頭に着く。 
 翌日早朝、遺跡へ自転車を借りてまわった。約八キロ四方の赤い大地の上にパゴダ(仏塔)や僧院跡が点在する。五世紀から十三世紀まで続きモンゴル軍の侵入で終焉を迎えたバガン王朝の宗教都市遺跡だ。当時の人びとの生活の跡は消え、権力の象徴である王宮は破壊され、寺院跡だけが残った。往時五千以上あったとされる寺や仏塔は、今も二千以上が現存する。
 最も有名なアーナンダ寺院のなかに入る。高さ五十メートルもあろうという尖塔を持つ十一世紀の遺跡だ。お釈迦様の前世の物語ジャータカの壁画がきれいに残っている。上に登ると、周りにパゴダのネギ帽子のような尖塔がいくつも見える。向こうは雨期で水量を増したエーヤワディ河だ。
 太陽の日照りが強くなってきた。宿に戻って午睡でもしようかと思う。帰りがけ旧王都の城壁門の脇に「ナッ神」の祠があった。仏にも土地の神様にも等しく祈る。明日は飛行機で首都ヤンゴンに戻ろうか、それともバスで別の町の仏に会いに行こうか。自転車をこぎこぎ考える。
ジャータカ
 古代インドで成立したお釈迦様の前世(過去世)の物語。この説話群が生まれた紀元前のインドでは、人は生まれ変わるという輪廻転生、因果応報の考えが支配的で、お釈迦様がこの世で悟りを開かれたのは、その前世で善行を積んだからという思想に貫かれ、大小さまざまの説話が語られた。日本語で「本生譚」と訳された。
 仏教の伝播とともに、アジア各地で土地の説話などに影響を与え、日本でも「今昔物語」など説話集にその影響がみられ、さらに歌舞伎、能の題材ともなった。中東、欧州にも広まり、「イソップ童話」「アラビアンナイト」さらには「グリム童話」などにもジャータカの要素があるという。南アジア、東南アジアの寺には、今もジャータカをもとにした絵が飾られ、庶民の信仰をあつめる。
《巡礼メモ》
 ミャンマーの首都ヤンゴンへの直行便は無い。バンコク、シンガポールでの乗り継ぎが最も便利。バガンへはヤンゴン、マンダレーから毎日一〜二便就航。文中のエーヤワディ河を行き交う船も快適である。

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