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寺だより「MOYAi」
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如是我訪アーカイブ
 如是我訪−アジア古寺巡礼というタイトルで季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)に連載し、それをお寺新聞「MOYAi」に転載しています。
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如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十五話
●ボロブドール遺跡
(インドネシア・ジョグジャカルタ郊外)

 〇二年十月、インドネシア・バリ島のビーチリゾートで、路上に駐車中の自動車が爆発、日本人を含む外国人観光客など二百二人が死亡した。当局はイスラム過激派を拘束した。バリ島爆弾テロ事件だ。
 バリは世界の観光地、そして神々の島だ。イスラム国家インドネシアにあって、バリ・ヒンドゥー教文化の華が咲く。島ではヒンドゥーの祭が、いつもどこかで営まれ、バリの舞踊や民族音楽ガムランの響きが流れる。街には、深夜まで欧米、オーストラリアや日本の観光客が肌も露わに闊歩し、嬌声を上げている。
 事件の背景には、イスラム教徒の英米の対テロ政策への反感がある。資本主義の物質文化、ひいては共に砂漠で生まれたキリスト教文明とイスラムとの基本的な対立を指摘する言説も少なくない。
 日本各地から、アジア仏教の精華・ボロブドール遺跡へは、バリ・デンパサール空港を経由する事が多い。遺跡のゲートウエイ・ジャワ島の古都ジョグジャカルタまでは、飛行機でわずか一時間の旅程だ。
 遺跡は、ヒンドゥー文化の華が咲いた西暦七六〇年ごろから約九十年間、中部ジャワ・シャイレンドラ王朝の歴代の王たちが大乗仏教を奉じて建てたものである。遺骨をまつった廟(ストゥーパ)とも、五百四体の仏像の配置から、曼荼羅を模したともいわれるが、今も定説はない。小高い丘の上、一辺百二十メートルほどの方形の回廊を基底に六層重なり、その上に三層の円檀を配す。高さは先端部まで四十メートルを超す。回廊壁面には、総延長四キロともいう壁画(レリーフ)に、釈尊伝や法華経、釈尊生前の物語ジャータカなどが描かれる。
 当時の中部ジャワ文明には、ヒンドゥー教と仏教が混在していた。歴代王朝の当主は、二つの宗教どちらかを信奉し、そこに対立も混乱もなかったというのが現代の学説だ。実際、ボロブドール周辺には、同時代に建立されたヒンドゥーのブラナバン遺跡など壮大な古建造物が散在し、インド由来のシヴァ神、ビシュヌ神の像などが残る。中東の砂漠で成立し異端排除の歴史に立つ一神教文化と違い、森の思索から生まれた仏教、ヒンドゥー教などアジア多神教文化は、森の生理と同じように互いに影響を与え合い、他を認め共生する。カンボジア・アンコール遺跡、ミャンマーのパガン遺跡、ベトナムのチャンパ遺跡など古代仏教遺跡には、他宗教との混交遺跡が多い。ベトナム仏教寺院に至っては、仏菩薩だけでなく道教の神、インドの古神さえ祀るアジア宗教のパンテオンだ。
 一八八五年、偶然にボロブドールの基壇の下にさらに回廊が隠されていたことが、分かった。この点や、修復の際の研究などから、この大遺跡には統一された設計図は無かったと推定されている。時代それぞれの王が、自らの信仰に従って増広し、装飾を加えた。故に、仏塔とも廟とも曼荼羅とも確定できない壮麗な遺跡が残った。
 ここにも唯一の原理から形を造形するのではなく、過去を否定し破壊して建立するのではなく、時代ごとの複数の視点でものごとをを形成したアジアの智慧がある。東アジアから熱帯アジアにいたる仏教アジアの文明は、他との先鋭的な対立を融和する教えが隠されている。縁起といい中道といい、釈尊は他を生かす教えを説いた。ボロブドールの歴史は、そのことを強く物語っている。
《巡礼メモ》
 成田、関西、中部、福岡からバリ島へ直行便がある。デンパサールよりジャワ島ジョグジャカルタへ毎日数便一時間十分。車をチャーターして遺跡まで約一時間、バリ島からの日帰りも可能。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十四話
●ジョーリアン寺院
(韓国・慶州市)

 「団体旅行も悪くない」とこのごろ思う。パキスタン・ガンダーラ地方から、中国へ抜ける仏跡の旅は、友人十数人と出かけた。大都市ラワルピンディのホテルに着き、ふと地元の英字紙を見ると、目的の町に「夜間外出禁止令、外国人立入禁止令(curfew)が発令された」とある。「この町を通過できないと、今回の旅は台無しだ」。国内線の飛行機でこの町を避けるのか、迂回路を探すのか、それとも「アジアではこんな事日常茶飯事」と諦めて強行するのか、旅程の検討を迫られる。
 アジアの仏跡を巡る旅は、想像を超えたハプニングがよく起こる。スリや置き、下痢に伝染病、値段交渉に手こずる、予定の飛行機が飛ばない……。こんな不慮のアクシデントをどう解決するか、これも巡礼旅の醍醐味ではある。しかし、限られた時間で、要領よく仏跡を回るというのであれば、あらかじめ旅行代理店でアレンジした旅がいい。内乱や戦争下の国でない限り、日本の代理店は世界のあらゆる土地へ旅を作る。今回は、地元の代理店が情報を詳しく集めてくれた。「軍の命令で町へは入れないが、その町を迂回する道路までは封鎖されていない」という。独り旅ではこうはいかない。
 旅の不安を抱えながら、お寺参りを再開する。ラワルピンディから北へ三十五キロ、車を走らせると古代都市タキシラがある。この街の周辺には、アレキサンダー王東征(BC329)以来のシルカップなど都市遺跡や仏教寺院遺跡が散在する。ジョーリアン寺院遺跡は、ダルマラージカ寺院などと共に紀元前後から大帝国クシャーナ王朝の治世まで繁栄した僧院跡である。
 乾期で干上がった川に沿ってカリワーリ谷を遡行し、オリーブの木が点々と生え、石灰岩のゴロゴロとした岩山を登ると、丘の上に遺跡が見える。正門を入ると、覆い屋根で保護された仏塔があった。完全ではないものの、菩薩の塑像が何体も残っている。二千年近くの時を刻んでいるのだろうか。仏塔の周りを巡り、仏にひざまずく修行僧の姿が、見えるようである。
 奥に進むと、一段高くなって僧院が広がる。約三十メートル四方の中庭を取り囲むように僧房が四方に並ぶ。閉鎖的な修行空間である。石積みの高い壁で区切られた四畳半ほどの個室が二十九、講堂、食堂、厨房、貯蔵室など学びと生活の空間が、人里離れた山の寺に備わっていた。古代の比丘たちは、強い日差しのもと、ここで戒律を守り、仏典を学び、祈りの日々を過ごしたにちがいない。
 丘を降りて屋台で飲み物をとる。地元の子どもたちが集まってくる。顔がどこかヨーロッパの顔立ちである。タキシラ周辺からパキスタン北部のスワート渓谷あたりまでは、こうした容貌の人が多い。ギリシア人の侵入など古代以来の文明の十字路であることを実感する。
 数日後、外出禁止令が発令された山の町ギルギットに向かう。バスは町の入り口で検問にあう。機関銃が何門も据えられていた。装甲車がいた。ガイドが武装した兵士となにか交渉している。情報どおり、町へは入れないが、国境へと向かう幹線道路は封鎖されていなかった。ホッとした空気がバスにあふれた。一行は、三蔵法師にならいこれから峠を超えて、中国へと向かう。
カニシカ王
 古代インド・クシャーナ王朝最盛期の王。在位、生没年はさまざな説があるが一説には在位紀元一三〇〜一五五年という。マウルヤ王朝のアショカ王と共に、仏教最大の守護者である。
 仏像発生の地でもあるガンダーラ地方を本拠として、現在のアフガニスタンに近いプルシャプラ(現在のペシャワール)を首都とし、カスピ海沿岸の中央アジアからインド中部に及ぶ大帝国を建設した。帝国では東西の諸文化が自由に交流し、大乗仏教が世界宗教へと発展するきっかけとなった。仏伝によると、王は最初、仏教を軽視したがのちに熱心な信者となり、首都郊外に大塔を建て、アショカ王以来の大規模な仏典編纂事業を行ったという。カニシカ大塔建立は二十世紀になって王の名前を刻んだ舎利容器の発見により、史実であることが判明した。
《巡礼メモ》
 タキシラ観光の拠点ラワルピンディへは、首都イスラマバードの空港を利用する。日本からは北京、バンコク、カラチなどで乗り換える。山間部に点在する寺院遺跡へは車のチャーター以外に交通機関はない。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十三話
●サルナート遺跡
(インド・ベナレス郊外)

 安宿の窓から今日も葬列が見える。白い布でくるまれ、花できれいに飾られた骸が、男たちに担がれ、ガンガー(ガンジス川)に向かっている。かけ声が陽気だ。声だけ聴くと、婚礼の列と聞き違う。明るい葬列である。聖地ベナレス(ヴァーラーナスィー)に居ると、人の善も悪も、美も醜も、生も死もすべて渾然一体となり心に迫ってくる。早朝、すぐ前のヒンドゥー寺院から拡声器でお経が流れてくる。幾つかの旋律があることに気付く。小一時間もすると、経の旋律がうわずってくる。複数の僧による掛け合いの経が始る。クライマックスは何か経文の一部の繰り返しだ。永遠に続くかと思う反復のお経がずっと流れている。
 この街に来て五日目、朝七時には宿を出て、郊外にある釈尊最初の説法の地サルナート(鹿野苑)を訪れた。駅前からミニバスに乗る。相変わらずの喧噪だ。リキシャ(人力車)屋、宿の客引き、物売り、動物使い、占い師、体重計屋。客から一ルピーでも多くせしめようと必死の形相である。街から北東に十分ほど走ると、大きな仏塔が見えてきた。
 朝の空気が気持ちいい。ゲートを抜けて、サルナート遺跡に入る。ここは、釈尊が悟りを得て初めて説法を行った「初転法輪」の土地である。人間の実相を苦しみととらえ、その「苦」のありさまをあきらかにし、それを滅する道を示す「四諦八正道」という真理を示した。
 整備された芝生の上を、仏塔に向かう。シンガポールからの巡礼団、台湾人の僧侶と信徒、スリランカとおぼしきサフラン色の衣をまとった僧の一団、さまざまな言葉が飛び交う。高さ四十メートルを超すストゥーパ(仏塔)がそびえる。後世、増広されたものの、仏教最大の守護者マウリヤ王朝アショカ王(治世BC268-232)の御代までさかのぼるというダーメク大塔である。中国、東南アジア、そしてインド、あちこちからの巡礼者と共に仏教共通の礼法に従って、右に三周、仏塔を回る。チベット語のマントラが遠くから聞こえる。仏教はやはり国際宗教なのだと改めて気付く。
 遺跡の一隅に、厳重に鉄柵で囲った壊れた円柱があった。中をのぞくと、高さ、直径がそれぞれ一メートル近くあろうか、柱の一部が幾つか保存されている。表面にびっしりと古代インドの言葉が刻まれている。インド美術史の劈頭を飾るアショカ王柱だ。王が紀元前三世紀、仏陀の聖跡、仏弟子の遺跡に建てたものの一つだ。二千年を遙かに超す時の重さが、そこにあった。
 遺跡を出て、物売りに囲まれ、みやげ物屋をひやかしながら、広場正面の博物館に入る。アショカ王柱の柱頭部が展示されている。仏説の象徴である法輪を守護するかのように四頭の獅子が周囲を睥睨している。インド国旗のシンボルとしても使用され国家統合の象徴である。
 その夜、文庫本の原始仏典を読了する。こう記されていた。
「己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が煩悩の矢を抜くべし。煩悩の矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、やすらぎに帰する」。(スッタ・ニパータ)
法 輪
 法とは、仏の教え。輪は車輪である。ホトケが教えを説くことを「転法輪」といった。つまり、釈尊が説いた「法」が威光を持って、人から人へと遙かに広まることを表している。
 車輪をかたどった法輪のシンボルは、インドのみならず、南アジア、チベット、中国、モンゴル、東南アジアから朝鮮、日本まで、広く現在も仏教の教えの象徴として利用されている。
 「初転法輪」とは、釈尊が初めて法を説くこと。サルナートの地で「四諦」(本文中参照)ほか、苦しみを滅するために八つの実践的な徳目を説いた(「八正道」)という。正見、正思、正語、正業(行い)、正命(生活)、正精進(努力)、正念(思念)、正定(精神統一)の八つである。これは苦行と快楽の二つの極端を離れた中道のありかたを説く。
《巡礼メモ》
 日本からベナレス・サルナートへは首都デリーを経由した方が便利。成田発(週5便ほど)関空発(週3便)がある。デリーからベナレスは鉄道で9時間。国内線も就航し、所要時間約1時間15分。

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