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寺だより「MOYAi」
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如是我訪アーカイブ
 如是我訪−アジア古寺巡礼というタイトルで季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)に連載し、それをお寺新聞「MOYAi」に転載しています。
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如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十八話
●シギリア遺跡
(スリランカ・ダンブッラ郊外)

 〇四年の大津波に襲われたスリランカ南部の街郊外に、幼稚園舎を友人たちと建設するため、何度かこの島国を訪れている。釈尊の教説を守り続けた上座部仏教が最初に繁栄した土地、この教えはのちにミャンマー、タイへと広がった。主要民族のシンハリ人は、自らの信仰に大きな誇りを持ち、同じ仏教国の日本にも近親感を持つ。
 他の仏教アジアの国々と同じく、葬儀はにぎやかだ。街道筋を車で往復していると必ずや、短冊がたなびき白い横断幕が張られた葬儀に出会う。葬儀で村人が口にする言葉が「ニワン・サァパ・ラベーワ」。涅槃の至福が得られますように、という意味だ。南アジアの人々は、仏教、ヒンドゥー教を問わず、生は何度も繰り返すという教え「輪廻転生」を確信している。その繰り返しの生のために、功徳を積み、究極的には生の消滅=涅槃の境地に達したいというのだ。
 先日、建設視察の帰途、二十年ぶりに古代シンハラ王朝の王都ポロンナルワなど中北部「文化三角地帯」と呼ばれる一帯を訪れた。紀元前から十一世紀ごろまでの古代仏教の大遺跡群がそこここに散らばっている。
 宿を早朝立って、車でシギリア遺跡に向かった。乾燥した大地とヤシの林の小さな峠を何度か越える。遠くに巨大な岩が見えた。宇宙から落っこちて来たとしか形容できない怪異な岩山である。街道から二キロほど入る。周囲の緑と隔絶し、ほとんど垂直に屹立する高さ約百八十メートル、茶褐色の巨塊が面前に見えてくる。シギリアの衝撃は、この遺跡の風貌だけではない。この岩の頂上に宮殿を建てた狂気の王が実在し、わずか十一年で権勢を誇った王も自死を選び、天女の壁画で代表される贅をこらした宮殿も破壊されたという史実だ。
 紀元前よりこの場所は、仏教僧の修験の場であった。問題の王カーシャパは、五世紀後半にポロンナルワの古代王国を繁栄に導いたダートゥセーナ王の庶子として生まれた。正妻の子である弟に王位継承権を奪われるのを恐れ、父王を軟禁し、王に反感を持つ司令官に実父を殺させてしまう。
 仏教の戒律でもっとも大切なものは「殺すなかれ」という「不殺生戒」、親殺しはそのなかでも最も重大な戒の侵犯である。破戒の苦しみからか復讐を恐れてか、王は狂ったように世間と隔絶した岩上に宮殿を築いた。
 遺跡は、アンコールワットにも劣らず巨大である。長辺が一・五キロを超す堀に囲まれて狂気の王城はそそり立つ。堀の入口から、王の沐浴場、人工の上水道で作られた噴水、石窟寺院跡などを通り、岩に取り付く。石の階段を十分ほど、そしてほぼ垂直に登る鉄のはしごに取り付く。天女のフレスコ画は、オーバーハングした岩のくぼみにある。色鮮やかに合計十三人の美女が訪れるものを魅了する。岩を回るとテラスに出た。巨大なライオンの前足が残る。ここが宮殿の入口だ。王はこの岩全体を獅子の巨像で覆ったという。さらに十分ほど階段にへばりつきながら、よじ登ると、岩の頂上に出た。広さ一・六ヘクタール、王宮跡だ。頂上からは、熱帯雨林のジャングルと遠く父王の治世により繁栄したポロンナルワの王城跡が見渡せる。
 空中の楼閣は、破壊されたのち、岩山は再び仏教の修験の場に戻った。いつしかジャングルに埋もれた遺跡が、再び歴史に現れたのは、王の死後千四百年経った十九世紀後半になってからである。
《巡礼メモ》
 スリランカへは、成田から直行便が週三便、乗り継ぎなら日本各地の空港発も利用できる。コロンボから遺跡近くのタンブッラまでバスで四時間半、遺跡までは四十五分程度。観光にはここに宿を取った方が便利。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十七話
●ルンビニ遺跡
(ネパール南部・タライ地方)

 一九八〇年代半ば、妻とインド北東部、ガンジスの流れに沿って、半年ほど仏跡を歩いた。その年の三月、涅槃の地クシナガールから国境を越えて、降誕の地ルンビニへ向かった。朝七時、宿を出て国境行きのバスを歩いて探す。途中、葬列に出会う。ゴラクプールの街で乗り換える。満月祭(ホーリー)で、行き交う人々が色水をかけ合っている。国境行きのバスは究極のオンボロだ。椅子もガラスも至る所で壊れている。バスの中に流れ込む風が気持ちいい。
 ソナリ村で下車、二百メートルも歩くと出国の管理事務所、旅券にスタンプをもらってネパールに入る。道行く人の顔が変わった。どこか素朴な山の民だ。オート三輪を探し、六人の相乗りで夕刻、ルンビニ村に着く。空いっぱいに鳥たちがねぐらへの森に帰っていた。安宿の隣室にいた日本人カップルの女性が、肝炎に感染し熱でうなされていた。インド製の薬を分けたが、効くかどうか。明日にも飛行機で首都カトマンズに帰るという。
 翌日の日記にこう書いた。「ここは仏陀生誕の地。インド国境から十キロ余り、風景はまだそうインドと変わらない。ここタライの大平原にも灼熱の夏が来つつある。砂ぼこりの舞う茶褐色の大地、バニヤン(菩提樹)の木陰で休息する人々、穀物を満載して進む牛車、牛は右左と規則的に首を振りながら進む。乗合馬車を引く馬は、赤や黄、緑の玉や金属で飾られ、きらきらしている。経典に出てくる釈迦の時代と何ら変わりはしない。
 仏の地に何度も何度も詣でていると、仏教がどこか『自然』になったような、そんな気がする。生活することが旅することになったように、仏教もまた旅になった。いわば寺参りの繰り返しの日々。妻はいい仏像に出会う度にスケッチしている。『量の変化は質の変化をもたらす』と言う物理学か何かの命題を思い出す。単なる反復に過ぎないと思っていたものが、少し変わりだしてきている」。
 二千数百年年前、この地でシッダールタ(釈尊の幼名)は生まれた。仏教の守護者アショカ王はBC三世紀、ここを訪れ顕彰のため王柱を立てた。東晋の僧法顕も、唐代の僧玄奘もここに参った。イスラム支配の数百年、荒れ果て森の中に放置されたが、一八九六年考古学者ヒューラーが王柱を再発見した。王柱に釈迦生誕の地と記されていた。一九九五年には、生誕の場所を示す石版「マーカーストーン(印石)」が発見された。一九七〇年頃から、世界の仏教徒の寄進により、仏教の重要な遺跡公園として整備され、仏教国それぞれが寺を建立し、国際的な場所となった。シッダルタの母マヤ夫人が産湯につかったという池の脇には、生誕の地を守るように巨大な新マヤ堂が二〇〇三年に完成したという。
 明くる日の午後、この村を歩いていると、美しい声が聞こえてきた。音のする方へ歩くと、巡礼者の泊まるチベット寺に出た。堂に入る。薄暗いなか少年たちが経をあげていた。極彩色の仏を中心にこちら側に二列、小豆色の僧衣に身を包んだ小僧たちが、美しい経をあげている。『この声明、和声になっている』。小僧たちが右に左に上体を揺らしながらリズムをとって、ある時は高音部と低音部、ある時は三声にと自在に、行きつ戻りつしながら、経を歌い上げている。チベッタンのバッハ。堂内にハーモニーが響きわたる。明日には、ヒマラヤの見えるポカラの街までバスで行こうと思う。
《巡礼メモ》
 関西国際空港より、直行便が首都カトマンズまで週2便就航。公共バスで首都から約9時間。飛行機が一日7便飛ぶ。インド側からも観光客用のバスがデリー、ベナレス、ゴラクプールなどから出ている。
如是我訪─アジア古寺巡礼 第二十六話
●景真八角亭
(中国雲南省・景洪郊外)

 中国の南部辺境の地・雲南省の首都昆明へはじめて入ったのは、外国人の自由旅行が許可されて間もない一九八五年秋だった。緑が多い高原の街の印象がある。誰もがまだ貧しかった。九四年、ベトナムへの国境が開いたと聞いて、再度訪れた。単線の線路をディーゼルカーで一泊二日、ベトナムを望む町に降り立ち、国境の橋を越えてハノイへ向かった。九年前、日本への国際電話を申し込んでつながるのに半日かかったのが、即時通話に変わっていた。旅行代理店の店先に「特殊旅游 清邁神秘・浪漫八日游 景洪港・瀾滄江・金三角・泰国」とあった。街角のその質素な看板は「雲南省の内陸港景洪港から瀾滄江(メコン川)を下りゴールデントライアングルを経て船でタイへと至るロマンの八日間の特別ツアー」と中国人に告げていた。まだ日本人にはこの国境の渡河は許されていなかった。
 それからさらに十三年後のことし、やっと夢が実現した。中国の変貌は急激だ。最南端の地は大変なことになっていた。巨大都市へと変貌した昆明からハノイへ、またメコン川の港・景洪(西双版納)を経て、ラオスを縦断しタイ・バンコクへいたる高規格の高速道路の建設が進んでいた。いたる所で巨大な重機が、うなりを上げて働いていた。北京オリンピックまでには完成するのだという。
 北京から二千五百キロ、中国の辺境・景洪は、蜃気楼のようにビルが建ち並び、ASEAN経済と合体を目指す東南アジアへの表玄関に変身を遂げていた。ラオス語と字形がよく似た主要民族タイ族の言語が街に溢れ、熱帯の木々が揺れる。中華人民共和国建国から八年間も、王国が生き残ったここは歴史的、地理的に東南アジアだ。あまたの如来・菩薩を信仰する大乗仏教、漢民族の土地ではなく、スリランカからカンボジアへと広がり、釈迦一仏に信仰を捧げる上座部仏教の地だった。
 タイ族の仏教建築、景真八角亭へ向かう。景洪から西へ約六十キロ、山頂部分まで植林され大増産される天然ゴムの林(一人っ子政策で需要が増す避妊具に使われるそうな)、普?茶の茶畑が広がる峠を超え車を走らせる。小さな村の小高い丘の上、菩提樹の大木の脇に風変わりな建物があった。三十一面の複雑な屋根、八角形の亭は、経典を収める経蔵として一七〇一年建てられた。破壊と修復を繰り返し、現在は国の重要文化財に指定されている。近づいて破風を見上げると、象や孔雀など南方の動物がびっしり描かれている。上座部特有のサフラン色の衣をまとった僧が経を上げている。寺の本殿、境内中央に建つ仏塔はラオスの寺とそっくりである。信仰は人と共にある。民族と共にある。中国の西の辺境にはイスラム教が、蒙古の砂漠とヒマラヤの山岳部にはチベット仏教が、そしてここには南伝の仏教がしっかりと息づいていた。国家の枠組みと、信仰の版図は少しばかり違うものだ。
 景洪に帰り翌日、国境を目指す。山を幾つか越え、少数民族の村を通り、途中の町へ一泊して約二百キロ。タイ、ラオスからの資材を満載したトラックと何度も出会い、ラオスの首都ビエンチャン発昆明行きの新型寝台バスとも遭遇した。国境には近代的な町が出現していた。
 出入国管理事務所でパスポートに出国印をもらい、人民軍兵士が大した緊張もなく見守る関門を抜けて、バッグをころがして非武装地帯を歩く。二十分も歩いたのだろうか。ラオスの国旗がはためくゲートが見えた。
《巡礼メモ》
 雲南省の首都昆明へ日本からの直行便はない。香港、ソウル、上海乗り換えが便利。昆明-景洪間は一日数便フライトがある。景真八画亭までの公共乗物はなく、車をチャーターするか、地元の観光パックで

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