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寺だより「MOYAi」
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●おすそ分け

 佐賀の方言に「おもやい」という言葉がある。寺だより「MOYAi」の名前の由来でもある。「共有する、わかちあう、シェアする」という意味だ。似たような言葉に「おすそ分け」という言葉もある。なにかいただき物をした場合に、ご近所に「おすそ分け」するという風に使われる◆こうした風習がめっきり少なくなった。かつて日本人が貧しかったころ、ご近所やご縁のある人々と、いい体験を共有するため、おみやげやおすそ分けという行為が当たり前のようにあった。豊かになった日本人は、いただいたものにこころから感謝するすべを失っているのではないか。すべてお金で済まそうとしているのではないか、と思う◆カウンセリングの一つに「傾聴」という方法がある。相手の立場に立ってひたすら話を聞くことである。目を見て「そうそう」と相づちを打って、聞くことに徹すること。主張も意見もなくひたすらに聴く。これって、ものにあふれる時代のこころの「おすそ分け」「おもやい」ではないかと思う。
(住職・川副春海)vol.45掲載
●母の言葉

 昨年から各地の定時制高校で「性教育講座」を続けている。とはいっても僧侶である私にできることは「生教育」つまり「いのち」の話だ。「人は家族と共に生まれ、家族と一緒に最期のときを迎える。父母と一緒の家族から、高校時代は結婚し子どもをもうける第一歩、『自立の時代』だ」と子どもたちにお話ししている◆先日、有田町の工業高校でお話しした。担当の先生が生徒たちの感想文を送ってくれた。ある生徒がこう記していた。「先生の話を聴いて『生まれるとき、赤ちゃんだけ泣いて、周りのみんなは笑っている。死ぬときは、周りのみんなが泣いて、自分ひとり笑っている。そういう風に生きなさい』といった母の言葉を思い出しました」◆なんとすばらしいお母さんなんだろう。子どもが小さいとき、親が口癖のようにつぶやく言葉が、ずっとその人間の生死観として残る。「人と共に生き、人に惜しまれながら笑って死ぬ」。共生と往生、日本仏教が最も大切にした言葉がお母さんから子に伝えられていることに感謝する。
(住職・川副春海)vol.44掲載
●無神論の子どもたち

 小さい頃は神さまがいて 不思議に夢をかなえてくれた〜松任谷由実さんが荒井由美といっていた頃の曲「やさしさに包まれたなら」です。40-50歳代の方なら誰もが口ずさめる詩でしょう。子どもの頃には、誰しもある体験だと思います。「何かが私を見ている。自分だけの神様がいて、小さな願いをかなえてくれる」。これは「人が誰も見ていないなら、悪いことをしてもいい」という発想の対極にあります◆どうでしょうか。近年の子どもたちの犯罪、小学生の殺人、16歳の親殺しなど様々な凶悪な事件が、頻発しています。「悪いことをすると何かが見ている」。何らかの「神」「仏」の概念が頭に少しでもあったら、こうした犯罪に走らなくてもよかったケースがあるのではないでしょうか◆この国の半世紀。復興から高度成長までひたすら「モノ」の充実を追求して、「こころ」の充足を置き忘れた結果が、いわば「無神論」の子どもたちの増殖、そしてその犯罪ではないか、そう思えてなりません。
(住職・川副春海)vol.43掲載
●仏教国

 この一月、海外教育支援を目的にスリランカ、ミャンマーを相次いで訪れた。スリランカは代表を務める教育支援団体テラ・ネットの幼稚園建設、ミャンマーは事務局長をしている浄土宗平和協会での「寺子屋」建設の目的だ。いずれも南伝仏教の名だたる仏教国、お寺が運営する教育施設を支援させていただいている◆いわば発展途上国でのお寺の役割は多岐を極める。宗教活動だけでなく、地域の集会所、学校に行けない子どもの教育支援、貧しい方々への福祉事業も行う。スリランカでは、一昨年の大津波で一瞬にして町が全壊した南部の海岸を訪れた。お寺に仮設住宅が建設され、今も数百人の被災者が生活していた。テラ・ネットは、親を津波で喪った子どもたちに、皆様の浄財を元に一年間の奨学金を授与、今年から幼稚園建設を行う。ミャンマーでは戦没者慰霊法要も行った◆仏教のいう「慈悲」の行動を今後も続けるつもりだ。援助する側もされる側も「同事同悲」、事を同じくし悲しみを同じくする。経典の言葉だ。
(住職・川副春海)vol.42掲載
●いただきます

 ニワトリを「絞めた」経験のある方いらっしゃいますか? どうでしょう。もうそう多くないと思います。昭和30年代まで、多久でも客のもてなしに庭で飼っていたニワトリを「殺して」、そのいのちをいただいて振る舞い料理に出していた◆ある農業高校でのこと。生徒に春からひよこを飼わせ、秋に自らの手で解体しいただく実習をするという。残酷というなかれ。子供たちは、解体実習に尻込みし、鮮血を見てなく子も多いという。ニワトリが鶏肉に変化し、フライド・チキンに変貌したときに、ハッと気づくという。「私たちは命をいただいているのだ」と◆食前の「いただきます」の言葉が形だけになっていないだろうか。つい2,30年前まで当たり前の風景だったニワトリの精肉作業。子供たちにとって、命をいただいて生きていることを自然と実感できる村の風景だった。食卓で「いただきます」というとき「命をいただいて生きているのだ」とお子様、お孫様に教えてあげてください。
(住職・川副春海)vol.41掲載

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