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■先祖墓が消え そして 檀家が無くなる

 フランスの歴史家フィリップ・アリエス PhilippeAries(1914-1984)は、名著『図説 死の文化史』*1で「かねてより信じられてきたように、人間はみずからが死にゆくことを知っている唯一の動物だ、ということは、実は確実ではありません。そのかわり確かなことは、人間が死者を埋葬する唯一の動物だということです」と記した。埋葬した土地を「墓」と称するならば、墓は人類の歴史とともにある。彼は、西欧圏での死とそのイコノロジーの変遷を、古代より近代まで、墓碑、教会、墓地などを手がかりに追う。人間たちの死のイメージは、何とたやすく移ろうものだろうか。私は、数年前にグルジア共和国の首都トビリシにいた。郊外の世界遺産の村にある、十世紀に建立されたグルジア正教・スヴェティ=ツボヴェリ教会は、お墓の上に建っていた。教会のドームの下、石畳すべてが王族、聖者の墓碑・埋葬地だった。人々はお墓の上で祈りを捧げる。日本人が親しんでいる祈りの場とは、ほど遠い空間だ。ガンジスに遺体を流すベナレスの風景、ラサ郊外の山で鳥に遺体をついばませるチベットの鳥葬を思い起こすまでもなく、葬制、墓制は時代、文化、民族によって、極端に変化する。「死者を葬る」ことが人間の条件だとはいえ、その制度は時代、土地によって容易に変わる。ひるがえって現代日本、人の死周辺の事情が変わり始めた。それとともに、墓制にも変化の兆しが見えてきた。江戸時代以降、葬送儀礼と墓に頼って命脈を保ってきた寺院経済は、根っこから覆される可能性がある。お墓を巡る現代日本人の「死の風景」を探る。
■宗教不信の世紀

 私の寺は、北部九州の片田舎にある。市とはいえ、人口二万数千人、寺の周りは戸数千戸の農村だ。檀家数は五百戸、とはいえ過疎化の影響で宗教的なサービスができる北部九州にある檀家は四百戸以下、あとは東京など都市部に出て、墓を寺に残すだけ、たまに参詣に来る程度だ。墓地は境内に約百戸、住職が昭和四十年代に建設した納骨堂に五百戸を収容する。住職の父は七十代後半、私は新聞記者稼業から足を洗って寺に舞い戻って十数年、四十代半ばの副住職である。年八回の寺での法要と年二十−三十回程度の葬送儀礼、その十倍ほどの檀信徒の家の先祖回向(年忌供養)に追われる。宗教法人収入にあぐらをかき、恥ずかしながら「新しい」寺の試みはほとんど何もしていない。
 三百人程度の参詣と二百五十食のお斎(食事)を振る舞う八月初旬の法要・大施餓鬼会から、住職と、中二になる長男、臨時にお願いした役僧で檀家三百五十戸を走り回った旧盆の棚経参り、今年はひたすら暑かった。その間、世間は「靖国問題」で揺れていた。宗教としての靖国神社に無知な人々が、靖国をだしに自らのイデオロギーを声高に語ることが何と多かったことか、と盆のお経をあげながら思う。
 評論家坪内祐三は、ある論考*2で「かつて、合祀祭のたびに、何百、何千、いや何万という『御魂』が招き寄せられた庭(中略)が、いつのまにか、アスファルトで固められ駐車場に変わってしまった」「そこ(招魂斎庭)に魂を招かれた数多くの『御霊』にとって、二重の意味で悲しみにあふれた光景なのである」と指摘する。神社側、いや宗教者にとって、春秋の例大祭ではなく、また盂蘭盆会に合わせて死者との交信をする七月十五日の「みたままつり」ではなく、神社にとって何の意味もない八月十五日に、祓いも拒否してボディーガードとともに参拝に来る首相の公式参拝は、宗教に対する無知のなせる業ではないか、という。
 唐突に「靖国問題」を持ち出したのは本稿の前提として、こうした現代日本のいたるところで露出する日本人の宗教に対する無知が、実は墓制、葬制の変化の兆しに奥深く影響を与えているのではないかと思うからだ。例えば、社会学者橋爪大三郎は大学生向けのテキスト*3でこう書く。「宗教なんて、自分にはあんまり関係ない。うっかりはまると怖いから、近づかない。それなのに、宗教について実は何にも知らない。(中略)お葬式や結婚式のときにお世話になるのが宗教だと日本人は思っている。だからそれ以外の場所に宗教が現れると警戒する」。橋爪は「明治政府は檀家制度を温存するいっぽう、神道を強要して(それ以外の宗教は危険視して)天皇の絶対化をはかりました。そういう歴史が尾を引いて、日本人の頭に巣くっているのです」と書く。この国の近代は、実は宗教に対する不信の歴史だったのではないか。オウムが暴走へトリガーを引いたのも、あまたの面妖な新宗教の発生も、日本人を霧のように覆う宗教に対する、無知からではないか。また、現代の家族の崩壊現象と、それと合わせ鏡のように存在する墓制の変化もまた、この宗教への気分と無関係ではない。
■フィクションとしてのイエ・ご先祖様

 坊さんとしての傍ら、ここ八年あまり週一−二回二時間程度の番組を地元ラジオで持っているからか顔(声?)が知られ、檀家以外からも様々な宗教相談を持ちかけられるようになった。昨日も寺出入りのある地場企業の営業マンが、寺で伝票を書き書き、身上を語り出した。
 「母が鬱病になってですね、近くこのお寺の近くが環境がいいので引っ越しを決めたところなんですよ。実をいうと、親父があまりに昔気質の人間で、母は結婚後四十年間というもの父に虐げられた生活そのものだったんですわ。つまり長男たる自分と母が、父と別居して療養生活を送る決断をしたのですわ」。Y君は三十代半ばの独身、妹夫婦は首都圏で生活している。母親は昭和ヒトケタ生まれ。「鬱がひどくなると、母は墓のことばかり気にし出すのです。彼女の家は中世来の名家らしく、菩提寺には家一軒は建つ程広い墓地があって、それが姉妹に先立たれ母以外に跡継ぎが誰もいない。昔風の父は、母の親戚の出入りを昔から禁止するほどで、母方の墓は荒れ放題、家の仏壇に母の先祖位牌をおくことも許さない人でした。そんなこともあって、父がけがで倒れた昨年、夫婦のバランスが崩れ、『私の家のことで子どもには申し訳ない』と自分を責めつづけたのか、母の落ち込み方が尋常ではなくなったのです」。貸家契約も終わって近く引っ越しをする。母親の療養が名目だが、実は「流行ってるじゃないですか、このごろ高齢離婚が。それもアリですよ。母親の先祖の位牌も新しい家では堂々と祀りますよ」というのだ。話は催眠療法から、近所で脱税容疑で話題になった「手かざし系」の新宗教の話題に飛び、少しほっとした顔をしてY君は、帰っていった。
 寺に生活していて、江戸期以来のイエ意識や先祖信仰、そして日本人特有のお骨崇拝は、まだ十分に強固だとつくづく思う。葬送儀礼、埋葬の風習で、禅や題目、念仏など教団側の論理よりも、檀家つまりユーザー側の漠としたイエ意識、先祖祭祀が優先されてきた。また中陰という仏教側の論理からいえば少々難がある風習もまた、やや制度疲労は起こしつつも、墨守されている。しかし、その強固な意識が少しづつ浸食され始め、ある日突然、豹変するかもしれない、そんな予感がする。
 いうまでもなく、イエ制度は昭和二十三年、建前上は新民法の施行で廃止された。新しい家族制度とは、結婚によって成立しその死によって消滅する一代かぎりの家族を基本とする。イエの財は、戦前の長子相続を基本としたのを廃し、均等に分配されるという形式だ。しかし民法は、先祖祭祀だけは「慣習に従って」主宰すべきものがこれを継承するとなっている。つまりイエの誰かが、墓を受け継ぐことになるという趣旨だ。
 ライフデザイン研究所の小谷みどりは、各種意識調査を引用しつつこう指摘する。「私たちにとっての先祖は、名前や顔を見知った近親者。一方で、祭祀財産であるお墓は『長男が継承する』という慣習が残っており、長男でなければ新たにお墓を建てる。またお墓を継承するということについては、道徳的な規範から『重要だ』と考えており、お盆やお彼岸のお墓参りも行っている。」*4「先祖祭祀は『故人祭祀』の性格を持ち、かつてのイエ制度時代のような規範や道徳ではない(中略)にもかかわらず、制度上の祭祀対象としての先祖はあいかわらずイエ構成員であり旧来の先祖像を引きずっているという意識と実体との矛盾が、墓地制度の抱える大きな問題なのである。」*5
 Y君の話に即して考えると、Y君の母親には、その実家の墓の祭祀者はいない。しかし心情から、夫には隠れて祭祀を行ってきた。しかし老いて来るにつれて、「実家の血が絶える」「その墓が無縁になる」という恐怖感から、ついに強権的な夫に反旗を翻そうとして、鬱に陥った。しかしY君は、先祖というのがフィクションだと知りつつも、母親の病のため、父と別居し、新しい家で堂々と母親の実家の仏壇を祀る。しかし、いずれ来るであろう父親の死をどうするか、母親の実家の墓をどうするか、まだ何も結論が出ていない。高齢離婚または、夫婦別々の墓に入る墓離婚で、結論を出そうとするのだろうか。
 先日、新聞は政治的課題となっている夫婦別姓問題でこう報道した。「夫婦が結婚前の姓を名乗ることができる選択的夫婦別姓制度について、『旧姓を名乗ることができるように法改正をしてもかまわない』と考える賛成派が四二・一%に達し、反対派の二九・九%を初めて上回ったことが、(八月)四日、内閣府の調査で分かった」(毎日新聞)。民法改正を容認する国民は六五%を超え、夫婦別姓への支持が広がり、継続審議となっている民法改正に弾みがつくだろうと、同紙*6は伝えている。
 戦後、半世紀を経て、イエ意識について戦後民法の時限爆弾が爆発し始めているのではないかと思う。先祖がイエの創始者や○○家という直系の系譜、さらにはイエを守ってくれる守護神としてのカミから、直接見知っている父母、祖父母、嫁いだイエの舅、姑に変わった。それと同じくして、自らが、自らの血、いや自らの遺伝子・DNAがどこから来てどこに行くのかというイエ意識もまた、家族の形の変化によって溶融し始めているのではないか。民法のいう結婚によって成立した家族が、結婚の解消、拒否、または無視によって、足元から解体し始めている。夫婦別姓もまた、この傾向を決定的に加速する。
■女たちの反乱がもたらしたもの

 Y君のケースに戻ろう。母親は高齢離婚で鬱から脱するかもしれない。しかし、三十代半ばの彼は結婚していない。「とりあえず」今は結婚するつもりはないという。母親は、自らのルーツである実家の墓にはいることによって、イエ意識を確たるものにするかもしれないが、息子は結婚するつもりはない。宗教学者島田裕巳は、こうした離婚の増加、非婚現象だけなく、事件となって新聞の社会面をにぎわす引きこもり事例、都市の雑踏のなかでヘッドフォンの音にこもるウォークマン現象、セックスレスの夫婦別床、さらにはe-mail社会、携帯電話などを総称して「個室化」*7と呼ぶ。ここに至っては、イエ意識の微塵も存在しない。
 取材でノンフィクション作家の井上治代さんをうかがった。井上さんは現代家族論、特にお墓の問題にも詳しく、昨年秋には『墓をめぐる家族論−誰と入るか、誰が守るか』(平凡社新書)*8を上梓した。同書は「戦後の日本の家族には二回の変化があったという見方が定着している。第一の変化が一九五〇年代半ばの高度成長期に起きた変化である。戦後の民法改正によって、家族は親子、それも父子継承ラインを重視した家(直系家族制)から、夫婦を単位とした家族(夫婦家族制)へ移行し、さらに、高度成長期の農村から都会に仕事を求めた若者の人口移動によって農村に親を残した若者が都会で所帯を持つという、親と同居しない核家族を増やした」という。そういえば、私の寺でもほとんどこの時期に、五百軒の檀家のうち、二割以上が父祖の地を離れ、墓はそのままに、都会に家を建て仏壇を持っている。何年に一回か、思い出したように墓参りに来る層だ。その土地を離れた檀家のうち一割以上は、墓地(納骨堂)の管理費さえ納めてもらえない。お骨を遺棄したとも考えられる層だ。(もっとも寺の墓地規定通り、お骨を無縁墓に合祀したケースはまだないが)。逆に、先祖祭祀に熱心な家族は、故郷の寺と居住地の近くの寺と二つの寺とのつきあいを持っているものも多い。地方は、年老いた老夫婦または独居老人ばかりである。長年住み慣れた土地を離れたくない、そして子どもに迷惑をかけず、私の代だけは墓を守っていきたいとその多くは思っている。昨年、独居老人の葬儀が、私の寺で二件あった。一人は発見されたのが死後、五日間経過していた。
 そして「第二の変化は一九八〇年代に起こった。主に夫婦を単位とした家族内部の変化で、家族に大きな規範解体が起こり、出生率が低下し、離婚率の上昇、事実婚の増加、婚外子の増加が顕著になった。(中略)すなわち、婚姻の公的意味付けの希薄化、子どもや配偶者を持たないライフコースの市民権獲得を意味し、『個人』を単位とする社会への動きである」(同書)。彼女は「男たちは変化に乗り遅れているのよ」という。つまり家計から祭祀まで家の始末は伝統的に女性に担われてきた事実をあげ、その女性たちの自我意識の変化に男性たちがついていけないのではないかと指摘する。姑と同じ墓に入ることを拒否する墓離婚の増加、つまり「妻は夫の家の墓にはいる」という神話の崩壊をあげる。さらに「こうした家族の基底部分での変化が、マグマとなって九〇年代から今世紀にかけて一気に噴出してきたのではないか。一九九〇年という年はそういう意味で象徴的な年なのです」と話す。その墓をめぐる変化は、もう少し後に見ることにして、現代家族をめぐるもう一つの大きな変化、少子高齢化という事態を俯瞰してみよう。
 本当に日本人は死ななくなったと思う。昭和十年代までは、二十五歳までに三分の一が死んだ。戦前の大家族は必ず死の影を背負っていた。「赤ちゃんのうちに赤痢で死んだ」「出征して帰らなかった」「結核で若くして死んだ」。寺の檀家へ法事で赴くと、座敷の奥、仏壇の上に遺影が何枚も飾ってあった。しかし現代、核家族化の進行だけでなく、両親と別居し、親が年老いてくると今度は、介護保険という老いのアウトソーシングが、流行している。特別養護老人ホームはどこもいっぱいで順番待ちの状態だ。
 少し数字で見てみよう。葬儀社の業界誌の枠を超え、現代日本の死周辺の事情を広く紹介する季刊の「SOGI」最新号*9は「データで見る日本の家族・高齢化そして死」という特集記事を掲載している。頻繁に引用される合計特殊出生率(女性が生涯に産む子どもの数一・三四=九九年度)が低下したという事実や乳児死亡率の激減、長寿化の進展でこの国はどう変わったのだろうか。同誌に掲載されている厚生省の平成十二年国民生活基礎調査*10によると、家族は、二人世帯がトップにたった。ついで、一人世帯が続く。夫婦二人に子ども二人というイメージしがちな四人家族は四位と少数派である。また同誌掲載の総務庁の「統計から見たわが国の高齢者*11」によると六十五歳以上の高齢者は昨年で二千百万人を超え、総人口の一七・三%、高齢者の比率は対七〇年比で三倍、高齢者のいる世帯は全体の三分の一を超す三四%である。さらには同誌は、住宅土地統計調査からの推定として、百五十八万世帯が子のいない高齢者世帯だと、衝撃的な数字をあげている。子どもという継承者のいない高齢者世帯が(法的継承者は別として)、高齢者世帯の四分の一にのぼるというのである。現在、日本の総人口は微増を続けている。これは、出生数が微減状態にもかかわらず、平均年齢が増加している事実、つまり死亡者数が増えない事につながる。昨年にいたっては、死亡者数は九十六万人(人口動態統計)と平成十一年に比べて二万人も減っているのだ。
■再び鬼がやってくる

 死という鬼を放逐したと勘違いして、街には生の躍動感ばかりが満ちている。しかし鬼はすぐそこにやってきている。自明なことだが高齢社会とは、実は高死亡者数社会なのだ。戦後一貫して増加傾向を示してきた平均寿命が、昨年、その伸びを止めた。男女とも前年比マイナスを記録したのである。医学がどれだけ発達しても人が死ななくなったわけではない。小谷みどりはこう指摘する。「厚生省の予測によれば(中略)二〇一〇年半ばには戦後の混乱期を除き、過去最多の死亡者数百四十万人を突破する。さらにはピークを迎える(中略)二〇三〇年半ばには百七十五万人となり現在の二倍近くまで増加するという。今まで経験したことのないほどの『多死社会』が、すぐそこまでやってきているのである」(前掲書)。
 二〇三〇年代といえば、現在、五十代前後の団塊の世代が集中して亡くなると推定される時代である。戦後、ベビーブームに始まって、時代の潮流の潮目には必ず、団塊の世代が一枚かんでいた。八〇年代に始まった家族の変化の主役は、この世代である。そして今、この世代の親たちが、人生の終焉を迎え、介護、老い、そして死について、論議がブームになった。街の書店に、これらのテーマの本が山積みになっている。親の野辺送りを経験した団塊の世代は、墓の変化を促しつつある。すでに家族の変化というマグマが、噴出しだした。そしてこれから二十年のタイムラグを経て、団塊の世代が自らの死を迎えるとき、墓も葬送の文化も、重大な変化が起こるはずだ。さて仏教の側は、この変化に気付いているのだろうか。幕藩体制の寺請制度、そして明治政府による禁忌だったはずの僧侶の妻帯許可と常に上からの変化でしかドラスチックに変わりえなかった伝統仏教は、先祖という観念がフィクション化し、先祖墓が減少し、必然的に檀家制度もまた重大な変化を余儀なくされる可能性を秘めた迫り来る時代に、どう対応していこうとしているのだろうか。
■国が先祖墓の「制度疲労」を容認した

 再び、寺の庫裏での会話に戻ろう。昨年だったか、ひと月をおかず遠くから参りに来る八十代の老婆がいた。婆さんは、寺に参るたびに同じ相談を繰り返す。少しぼけが意識に交じっていた。婆さんの悩みはこうだ。生まれは寺のすぐ近く。兄弟は男一人、女五人。女二人はすでにない。数年前、寺の檀家であるその婆さんの弟Kさんが死んだ。婆さんの実家の墓は当然、寺にある。お骨は寺の墓に納められた。Kさんには子どもは娘一人、残された奥さんは、今、アメリカ人と結婚した娘を頼ってアメリカに渡ってしまった。寺の近くに墓を守るものはいない。しかし、墓の継承者は当然、アメリカにいる婆さんの義理の妹にある。「実家の親の墓は無縁になるのでしょうか、無縁にしないためにはどうしたらいいのでしょうか」。彼女にとっては悲痛な叫びである。寺としては継承者のKさんの奥さんの意向を無視することはできない。この婆さんがどうこう言うべき筋ではない。とりあえず年額三千円也の墓地管理費は、アメリカから送られてきている。
 手元に昨年十一月に出た墓地経営・管理指針等作成検討委員会なる団体の検討会報告書*12という六十ページほどの小冊子がある。都道府県の自治事務である墓地経営の管理指導について、厚生省(生活衛生局企画課)が委員会報告の形をとって出した行政運営、墓地経営のための指針である。行政が認識する墓地問題とは何かが、一目で分かる。そこにはこうある。「二十一世紀の墓地行政」とする章で墓をめぐる状況として「核家族化、少子化の進展」、「広域移動時代と墓参の困難さ」、「いわゆる『永代管理料』方式の限界」の三つをあげる。こうした現状認識で、建前としての墓地の「永続性の確保」をうたいつつも、「家意識は後退し、個人の価値観が多様化しており、利用者のニーズに応じた墓地の提供がなされることが重要である」という。「わが国の歴史を見ても、個々に墓石を建立した墓地に葬るという習慣が一般大衆まで広く普及したのは比較的新しいこととされて」*13いるという認識で、ある新しい形の墓地のあり方を認知している。それが「埋蔵管理委託型」という形態、つまり継承者がいらないお墓、寺、自治体など墓地管理者に任せ、跡継ぎがなくてもいいお墓「永代供養墓」なのである。報告書は民間の調査と断りながらも「平成十二年二月の時点で二百二十九の墓地で『永代供養墓』を取り扱っている」という。また、補論では「遺体や遺骨にこだわらない形」として、暗に樹木葬(後述)などを「利用者のニーズに従って」容認しているような表現もまた、見ることができるのだ。つまり、「当面は墓地の永続性の維持」としつつも、行政そのものが墓は永代、つまり不易な存在ではないと認め始めている。国がイエの墓の「無理」を承知しだしたのだ。
 寺に相談に来たK家の婆さんの、強固なイエ意識に彩られた悲しみも、Y君の母親の苦しみも、実をいうと、逆にこの「永代供養墓」というスタイルであれば、少しは緩和されるのかもしれないと思う。つまり、イエ意識の後退で、行政が認知せざるをえなかった「個人墓」「継承者不要墓」は、近親者が生きている間は、イエの問題に煩わされることなく、祈りたいものが自由に、お墓の管理者と共に供養できるかたちをとることが可能だからだ。
■「安穏廟」「樹木葬」という先駆

 「永代供養墓」を世に初めて認知させた妙光寺(日蓮宗、新潟県巻町)住職小川英爾師(一九五二年生まれ)に会った。永代供養墓は、東京・明治寺「多宝塔」、同・東長寺「縁の会墓苑」、超宗教の同・もやいの会「もやいの碑」などすでに数多いが、その代表的存在となったのが妙光寺の「安穏廟」である。「宗派が同じか、檀家であるか、継承者がいるかなど一切関係ない個人を単位として受け入れる」という主旨で設立されたそのお墓は、現在、同寺境内の七千五百平方メートルという広大な敷地に、大きな円墳を模した供養墓(敷地四百平方メートル)が四基建立されている。それぞれの廟にカロート(納骨室)が埋蔵され、それぞれ百八のお骨を納めることができる。正面のみかげ石の墓碑板にそれぞれの戒名を刻むことも可能だ。八九年夏に一期工事の一基のみで出発し、「主旨が理解されて百八区画すべて申し込みで埋まるのに十年でいければいい方と考えていたのに反し」*14、現在、最初の着工後十二年で四期工事すべて終わり、四百を超す申し込みでほぼ満杯状態だという。そのシステムはこうだ。申込者は(宗教宗派を問わないが、同寺の供養形式に同意することが必要)生前に、永代使用料八十五万円を支払う(一区画で複数の納骨が可)。管理者である寺は、物故者に対し彼岸など年四回の法要回向、維持管理を行い、年会費(三千五百円)の納入が停止された以降も十七年間は個別に安置し供養、その後も合同安置して「永代にわたり」供養するという。檀家制度に安住していないことが特徴だ。宗教行事である葬儀は別として、安穏廟を利用するのは事実婚のカップル、友人同士などの合同使用にも門戸を開いている。事実、申込者は地元新潟県だけでなく、首都圏など全国にわたり、大半は女性、八割が生前の申し込みという。また、大分県などにも同じシステムの安穏廟が設立され、すでに活動を始めている。
 小川師は先駆者というイメージとはほど遠く、実に穏和な和尚さんだ。「安穏廟は、省スペースの墓、跡継ぎ不在のかわいそうな人たちの墓という見方は実に一面的です。生あるうちに生き方についてお互いに語り合える縁を創造するお墓ではないでしょうか」とおっしゃる。定期の法要の他に、縁を創造する「フェスティバル安穏」という場を設けたほか、安穏廟に登録した会員たちにより、頼るものがいない独り暮らしの会員のために死後、遺骨を寺まで運ぶネットワークが育っているという。
 継承者不要のお墓だけではなく、さらに墓石にもこだわらない「お墓」(といえるかどうか)も、育っている。「樹木葬」である。九九年十一月にこの画期的な葬法、墓制をスタートさせたのは祥雲寺(岩手県一関市、臨済宗妙心寺派)住職の千坂彦峰師(注)(一九四五年生まれ)である。千坂師は、短大勤務の傍ら地域の文化財保護運動、北上川流域の緑や自然、川の環境を守る運動(昨年NPO法人として認可)などを経て、自然とハゼ、ユズリハ、ドウダンツツジ、アジサイ、ナナカマドなどの低木の雑木林、そして人のとむらいの場を共に生かす葬法を始めた。そのシステムは、妙光寺安穏廟と同じやはり個人を基本とし、宗教、宗派にこだわらず、また継承者を前提としていない。一関市内にある寺から車で三十分ほど走らせた小川や棚田が広がる里山の一角に樹木葬墓地がある。申込者は墓地使用料として二十万円、環境整備費として三十万円以上を支払う(事務管理費として年間八千円、没後墓の管理者が不在であれば不要だが、墓所を使用する意志のない場合でも一定期間墓所を維持できる)。非常に特徴的な点は、墓地に墓石をおかず、骨壺も使わず、埋骨場所に木を植える。死んで裸の無一物に還るという発想である。半径一メートル以内には、他の契約者とは重複して埋骨せず、その木を墓碑の代わりとするのだ。また同じ木の下には、やはり安穏廟と同じく、縁あるものどうし眠ることも可能という。また墓地となった里山を間伐する際には、その木は木炭として加工され、川の水質浄化に利用される。徹底して自然と環境を意識した墓所作りである。千坂師は「葬法はまことに歴史的存在と言えます。お墓の必要性、環境問題、いずれも日本社会の置かれた歴史的な課題と関係していると思います。したがって、現代の様々な課題にどう対応するかという視点で葬法をとらえることが大事ではないでしょうか」*15という。環境管理費は、寺院収入ではなく、墓地周辺のログハウス、水質浄化、緑化などに当てられるという。千坂師は「樹木葬」と混同されがちな散骨には否定的だ。「宗教人として散骨運動には何かしら独善的な要素を感じられた。すでに火葬している遺骨を撒き捨てることだけが、どうして自然に優しいといえるのだろうか」*16という。また千坂師は本誌アンケートに対し「私が発案し実現した『樹木葬墓地』に寺庭は入りたいと言っています。私は、自分と縁があったところならどこでもよいと考えています」「自分の家の墓だけを大事にして、周囲の環境を汚して恥じない人が跡を絶たない昨今、お墓にとらわれない人の方に、宗教心をかんじてしまうことが多いのは残念です」と答えてくれた。

(注)千坂彦峰師の「彦」は正式には「山へんに彦」ですが都合上「彦」と表記しています。
■死にぎわのわがままを成就する

 前述のノンフィクション作家井上治代さんは、実はこうした家にとらわれず、また従来の形式にも左右されず、「よりよい死と葬送を実現する」ための団体「エンディングセンター」を主宰している。妙光寺の安穏廟も祥雲寺の樹木葬墓地もまた、エンディングセンターと深い関わりを持ちながら実現した。またこのセンターでは樹木葬墓地の看取るものが無く亡くなった人のための遺骨の運搬、埋葬などのサポートのネットワーク作りも行うほか、これまで家族、一族など血縁によって行われてきた葬送や墓所の維持を、家族以外の人間も参加できる新しい結縁のサポートシステムよって、できないか模索している。井上さんは「長年、活動をしてきて、本当に葬送に関して一九九〇年に山が動いたという感触を持っています。戦後生まれでその家族制度のなかで社会化した人々が最晩年のときを迎えたということが、こうした動きの背景でしょう。安穏廟、樹木葬だけでなく、横浜市立日野公園墓地の合葬式納骨堂(九二年)をはじめとする行政側のアプローチ、散骨運動を進める『葬送の自由をすすめる会』発足(九一年)など市民団体の動きなど一気に動き出しました」とここ十年あまりの葬送ブームを振り返る。「これを一過性のブームに終わらせないためにも、お寺の動きが大切です。何百年と続いてきたお寺の『型の継承』、お寺の永続性は、お墓を求める消費者にとって他と比べようもない安心感なんですね」。
 ここまで来て、大きな問題が残る。葬送、墓制を見る限り、確かに多様性の時代が到来を告げている。しかし、葬送儀礼もお墓の問題も、実は死んでのちに現実になる事である。いわば家族にとっての「死人に口なし」状態という難問に逢着する。遺族に最終的な選択権が委ねられるのだ。現代仏教界のあらゆる課題に先駆的に立ち向かい、まさにブルトーザー的情熱で、新しい発想を実現させている神宮寺(長野県松本市、臨済宗妙心寺派)の高橋卓志師(一九四八年生まれ)を訪れた。私も宗教者として、またこの小冊子の編集者立場として様々な寺院活動を見てきたつもりだが、驚いた。「言葉を喪う」とはこのことだった。七六年から寺に舞い戻って以降、四半世紀の高橋師の宗教者としての活動は、多岐にわたり、そのほとんどが、高度に実現されていたのだった。アトランダムに紹介する。ターミナルケアからホスピス活動、チェルノブイリ事件をきっかけとした医療支援活動、宅老所の活動、寺院会計の公表、季刊の雑誌「僧伽(サンガ)」(最新刊でA4判56ページ)の発刊、葬儀屋拒否ですべて寺院で葬儀を行い、さらに「アバロホール」というホールを生かし「尋常浅間学校」という名の講座を開設、九七年の創立以降、全国から専門家を招き開講、千人を超す生徒数と二万人近い受講者(延べ数)が参加、アクセス21というタイでのNPO活動もし、東大大学院では講座も受け持った。当然、「夢幻塔」という「永代供養墓」活動も行っている。これらの活動すべてを寺の高橋夫人を含む専業スタッフ七人で切り盛りしているという。
 その高橋師が今最も力を入れているのが、永代供養墓をきっかけとする「生前契約」「リビング・ウィル」の活動である。チェルノブイリからNPO活動を始めた高橋師は、現在長野県NPOセンター代表。そのセンターの活動のなかから「生前契約・没後決済」を目指す「ライフデザインセンター」をことし二月設立させた。宗教者、弁護士、公証人、医師、臨床心理士、公認会計士、税理士、ファイナンシャルプランナーなど高度な専門知識を持つ人々を推進委員に、人生の終末期の財産管理から末期のターミナルケア、献体、葬儀、墓地など人々の「死に際のわがまま、死後のわがまま」を総合的に見ようという組織である。近くNPO法人として出発する。自らの最期を自らの決定で行うという基本理念に、その死の周辺に支援者として関わる人材を集め、生前に契約したことを没後に実現するという活動なのだ。高橋師は「今、日本人の死生観が明らかに変化する兆しがある」という。「葬儀、墓制を含む人生の最終ステージで、訪れるだろう死を意識しながら自分の最期のライフスタイルを決め、こうしたいわば死から生へのフィードバックで、死を末期のときに限定せず日常のなかに取り入れよりよく生きようとする意志が、現代の死生観を決定するのではないか」と話す*17。さらにある論文に「このプロジェクトは、利用者の死の周辺における意思の表明を受け継ぎ、その意思を実現させていくものである。訪れる病と死について、いってみればどのような医療の扱いを望み、どのような死に方をし、どのような別れをしたいのかという意志を意識あるうちにリビング・ウィル(生者の意志)として残しておくことが出発点となる。(中略)活動は、エンドステージだけに限らず、死後の扱いに関する意思表明として受け入れることになる」*18と書く。
 「お墓の新しいあり方、お墓を含む自らの最期をどんな方法で自らの意志によって決定するか」という活動、ひいては「新しい寺院のかたち」を予感させる活動が長野県の小さな街で始まっていることだけは確かである*19。
■「徴候としての力」−虚無の再創造へ

 ことしも、妙光寺の新しいかたちの縁づくりである「フェスティバル安穏」が八月二十五日に始まった。全国から会員が集い、檀信徒が集まり、共に法要に参加し、シンポジウム、コンサートを開き、それぞれの縁を確かめた。時代のうねりにしなやかに対応する新しいお墓がここに定着した。「散骨」活動の一部に見られる即物的な遺骨の遺棄とは全く違う、お墓に共に入るもの同士がいのちを分かち合う新しいかたちのお寺を中心とした縁の創造が始まっている。新しいお墓のかたちは、自らの個性に従ってそれぞれが創り出すものである。新しい世代が、創り出すものである。決して、旧来のお寺のかたち、イエのかたちではないだろう。会員制の継承者なき墓がさらに増え、数百年続いてきた檀家制度が本格的に崩壊しだしたとしても、それは新しき寺院を創出するための痛みなのだろう。それが、伝統仏教の再生に寄与してくれたら幸いである。こうした変化にも取り残され、伝統仏教全体が基盤を喪失し、衰退へ向かう可能性もまた非常に大きい。金満に酔い、自己再生能力を喪失しつつある伝統仏教の世界に、変化を求めるのは難しい。しかし、今回紹介した三人の先駆者小川英爾師、千坂彦峰師(注)、高橋卓治師の活動(そういえば三人とも団塊世代だ)は、その伝統仏教の停滞する現状に小さな突破口を開いてくれているのではないか、オルタネイティブな寺院のモデルを提示しているのではないか、と確信する。
 冒頭引用したP・アリエスの言葉を紹介しよう。欧州史における死についての「イメージの狩人」であるアリエスは、現代の死の風景に急に沈黙する。「十数年も前であれば、最後に頭に浮かぶのは母のこととか、『アベ・マリア』の聖母とかであると想像されたのかもしれません。しかし両親も、夫婦も、子供たちも消え失せてしまいました。神は死に、神の顔は時代遅れの人たちが昔と同じように、さあはじめて神の顔があらわれてくださると未だに期待しているまさにそのとき、もはや不在なのです。」。
 しかし彼は、ベルイマンの名画「叫びとささやき」を引用しながら「(この)映画がかいま見せてくれる新しい象徴的思考が、こうして、試行錯誤的に、ときには大変古い信心から出発して、現代的な虚無の観念をめぐって、形成されつつあるように思われます。しかしこの虚無は、(中略)(死の)意識のすすむ道筋で、たとえどのような短いものであれ、持続の厚みを獲得し、徴候としての力を獲得した虚無であるのにほかならないのです」*20と記す。「持続の厚み」「徴候としての力」というアリエスの用語に、何を感じるか、読者の自由である。死の新しいかたちが、二十世紀の文化的爛熟の果てに、そこかしこで創造されつつあることは、どうも確かなようである。

(注)千坂彦峰師の「彦」は正式には「山へんに彦」ですが都合上「彦」と表記しています。
*1 『図説 死の文化史』福井憲彦訳、日本エディタースクール出版部1990/6刊 (Images de l'homme devant la mort 1983,Ed.du Seuil)
*2 「歪められた8月15日公式参拝」文藝春秋2001年9月号
*3 『世界がわかる宗教社会学入門』筑摩書房2001/6刊
*4 『変わるお葬式、消えるお墓』岩波書店2000/3刊
*5 「消費者問題としてのお墓」本誌寄稿
*6 2001/8/4付同紙
*7 『個室』日本評論社、1997/6刊、本誌ロングインタビュー参照
*8 2000/11 刊
*9 表現文化社刊、通巻63号
*10 厚生省大臣官房統計情報部社会統計課国民生活基礎調査室による
*11 「統計から見たわが国の高齢者」総務庁統計局2000/9刊
*12 「墓地運営・管理指針等作成検討会報告書」2000/11刊
*13 庶民層への先祖墓の普及は、天皇制強化のため家意識の強化が図られた明治三十一年発布の旧民法以降とされる。『墓と葬送の社会史』(森謙二著、講談社新書1993/6刊)がコンパクトにまとまっている。
*14 「これからの寺と墓」小川英爾1993/11
http://www.sogi.co.jp/annon/ogawa.htm より転載
*15 本誌アンケート 千坂師の項参照
*16 『樹木葬ガイド 花の下でねむりたい』(祥雲寺/樹木葬墓地委員会、エンディングセンター2001/6刊)
*17 高橋師の活動は、高橋著『死にぎわのわがまま』(現代書館、1996/4刊)に紹介されている
*18 高橋「生前契約、没後決済とは何か?」(雑誌「CARE LOOK 介護支援専門員」通巻6号所収2000 医歯薬出版刊)
*19 「生前契約」全般については、『高齢期最後の生活課題と葬送の生前契約』(北川慶子著、九州大学出版会2001/2刊)が、網羅的な解説、展望を試みている。
*20 前掲『図説 死の文化史』

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