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 年に数回、浄土宗が発行する「浄土宗新聞」の一面コラム「鐸声」の一部を紹介します。他にも、月刊仏教誌「大法輪」(大法輪閣)とか、季刊「かるな」(浄土宗出版室刊)ほか各媒体に記事を書いています。「大法輪」掲載の文章は「図解・仏画の読み方」「葬儀・法事がわかる本」など、「かるな」連載の「仏教ことば博物館」は書籍として販売されております。

関連リンク
■浄土宗出版室 http://press.jodo.or.jp/press/index.html
■大法輪閣   http://www.daihorin-kaku.com/
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■声が切り拓く

 愛犬が事故で死んだ。畑のすみに埋葬した。線香と花を手向け、簡単な経を読んだ。涙が出てきた。犬小屋を撤収する気になれない。まだ傷から癒えていない。翌日、定期の健康診断の際に提出していた大腸ガン検査で「要検査」の通知が来た。まさかとは思うものの、気にはなる。ペットの突然の死と、自らのほんのかすかな死の影。死について考えていた。大量の「死」の時代がやってくる。厚生労働省の推計によると、現在約百万人の死亡者数が、二〇三〇年代半ばには、年間百七十五万人という数にのぼる。◆地方の村での通夜に出向くと、とむらいの座敷が念仏の声で充ち満ちることがよくある。故人をよく知る村人が声を出す。遺族もそれにつられて手を合わせる。悲しみにふける遺族にとって、縁者に囲まれ共に祈る行為は、声が切り拓く究極の「慰め」ではないか。村人の念仏の声は、決して死に対する論理的な到達ではない。何百年と伝承してきた儀礼、その力が悲しみをいやす装置になっている。村人の習俗から切れた都市は、死の暴力性に対して、大量死の時代にどう対処するのだろう。オウム事件以降、熱狂的信仰を排除しがちな現代人は、どう自らの死を理解し、どう祈るのだろう◆ホスピス活動を続けるある医師は「死を最後の不幸にしてはいけない」と主張する。死は必然である。死が不幸であるとすれば、生は悲惨であろう。新しい時代の行動様式と響きあう「来世観」とは何なのだろう。「極楽往生」という死のかたちに「智者のふるまい」をしてはいけない。突如やってくる死に理を問うてはいけない。縁に連なるもの同士の、共に祈る念仏の声に大いなる慰めがあるはずだ。悲しみと絶望のなかで、口をついて出てくる原初の祈りの声、そこに端緒があるはずだ(K)
(浄土宗新聞一面コラム鐸声 2003/02掲載)
■無量光明

 日本人の寿命が延びた。高齢社会もすぐそこまで来ている。死についての論議が盛んだ。死についての学問の古典ともいうべき『死の瞬間』(原著は一九六九年刊)の著者キューブラー・ロスは、死に至る心の段階を六つに分けた。「この私が死ぬわけがない」という否認(隔離)に始まり、怒り(何で私だけが)、取り引き(何でもするから助けて)、抑鬱(だめだ)、受容(仕方がない)を経て最期の心の状態に「希望」をおいた◆京大教授で宗教学のカール・ベッカーは、最終的に「生死の意味を求める存在」が人なのだという。人生のラスト・ステージで人はなにものかとつながりを求め、自分なりの意味を創造しようとするという。彼は、研究の積み重ねのうえに、死後の存在を否定するだけの態度は学問としても「幼稚である」と断言する。古来、来世を考えない宗教はきわめてまれである。浄土教と呼ばれる東アジアの仏教各派はいわば、死についての思索の専門店だ。お彼岸の中日に太陽が沈む方角のずっと向こうに極楽が存在する。生と死は「希望」によってつながっている◆芥川賞作家で禅僧の玄侑宗久は、僧侶を主人公にして「死」や「葬」をテーマとする小説を精力的に発表している。受賞作『中陰の花』は生と死の間の柔らかな心の揺らぎにふれて、絶賛を博した。デビュー作『水の舳先』では、末期ガン患者を題材として、生命の根元である水をモチーフに用いながら、来世への希望を描いた。その彼が再度、生の彼岸の物語を書き終えたと聞いた。題して「アミターバ-無量光明」(仮題)。「無限の存在をもう一度感じ取ってほしい」と言う。アミターバとは、いうまでもなくインド古代の言葉で無限の光の仏さま(阿弥陀仏)だ。新作は文芸誌「新潮」十一月号に発表される。(K)
(浄土宗新聞一面コラム鐸声 2002/09掲載)
■「非縁社会」

 伝統的な日本人の家族観が、崩壊寸前だ。一月末に国立社会保障・人口問題研究所が将来推定人口を下方修正して話題になった。曰く「四年後に人口は減少し始める」「女性の晩婚化に加えて結婚しても子どもをつくらない夫婦が増えている」▼人口動態変化の最大の原因は、少子化、高齢化の進行だが、もう一つの不気味な変化が進みつつある。生涯独身で過ごす傾向、つまり「大独身時代」の到来である。同時に発表された平成十二年国勢調査速報によると、三十代前半男子の未婚率は四二・九%、同後半でも二五・七%、それぞれ二〇年前の二・〇倍、三・〇倍に急増している。嫁不足に悩むのは地方の農家ばかりではない。非婚傾向はこの国の新たなかたちなのだ▼戦後、日本映画の文法を決定づけたといわれる名匠小津安二郎は、食事の風景を、映像中央の卓袱台の左に一家の主、右に主婦、中央に子供たちとし、食卓の向こうには縁側をおいた。高度成長期まで「寅さん」、「時間ですよ」など日本のホームドラマはその構造を周到に受け継いだ。一九八三年映画「家族ゲーム」で監督森田芳光は、親子横一線に並んだ食事の光景を描き、対話無き家族の肖像として衝撃を与えた。九八年にNHKが二千五百人の児童を対象に食事の風景の絵を描かせた。なんと三分の一が独りで食べる構図だった。「孤食」現象だ。昨秋発表された村上龍の小説『最後の家族』には個室に引き籠もって視線もあわせない青年が登場する。血の縁を拒否する「非縁」の時代が到来したのだろうか▼仏教の教えは縁(縁起)が基本だ。世界を関係性として説く。華道の世界には草木の縁を切ってはいけないという掟があるそうだ。「縁を切ってはいけない。無縁の場に生きていいのか」そんなメッセージがお釈迦さまの深い智慧に内在している。(K)
(浄土宗新聞一面コラム鐸声 2002/04掲載)
■文明の衝突

 二十二世紀の歴史家は、現代のテロリストに対する戦争を「文明の衝突」時代の始まりと記すのかもしれない。二十世紀を覆っていたイデオロギーによる東西対立が終焉を迎え、「人のアイデンティティーの根本となる言語や文化、そして宗教の違いが、この世紀の世界秩序を生み出す最大要因となった」と。つい先ほどまで米国が声高に叫んでいた「グローバリズム」がテロの一撃でバブルのように消え去ってしまったように、西欧キリスト教文明が生んだ「近代」の普遍性も否定され、血によって贖われてきた宗教戦争の時代が再来するのだろうか?▼イスラエルなどユダヤの民が信じるエホバの神と、キリスト教の神、そしてイスラムのアッラーの神、この三つの宗教の神さまが、同じ神さまだったことをご存じだろうか? 神について記す旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教が共有する。イスラム教徒は預言者ムハンマドとその聖典コーランだけを唯一絶対と信仰するのではなく、ユダヤ教の「律法」、キリスト教の「福音書」をも尊重する。言うまでもないことだが、イスラム教徒にとっても最初の人類はアダムとイブなのだ▼インド古代仏教を集大成したアショカ王(BC268?-232?)の言葉を、今こそ味わってほしい。「すべての宗教の(中略)根本となるものは、言葉を慎むこと―すなわち不適当な機会においてもっぱら自己の宗教を賞揚したり、他の宗教を非難しないこと、あるいはそれぞれの機会において穏和であるべきことである。それだからこそ、各自は互いにそれぞれの仕方によって、他の宗教を尊敬すべきである」(「摩崖詔勅」)▼「縁」に依って生き、他を認め許しあう「共生」の思想こそ、この時代、アジアの仏教徒が世界に自信を持って発言できることではないか。(K)
(浄土宗新聞一面コラム鐸声 2001/11掲載)
■憲法二十条

 日本社会のアメリカ指向がますます強まっている。政治的従属だけでなく、「グローバル・スタンダード」「自己責任」という名のアメリカ流経済もしかり。しかし、かの国は、強烈な宗教国家だという側面はなぜか報道されない。テレビ伝道師の社会に与える影響は大きく、教会のミサの出席率は決して衰えていない。上昇志向の人々にとっては、より上の階級の教会に所属することが、みずからのアイデンティティーになっている。「世界の警察官」という心性も宗教とは無縁ではない。離婚率の増加による家族の崩壊など負の側面を、プロテスタントを中心とする宗教は底辺で支えている▼ひるがえって、日本人は宗教を知らなさすぎる。「神の国」発言でひんしゅくを買った森前首相は、小渕元首相の葬儀で「あなたは天国に召された」と呼びかけた。公人として諸宗教に配慮するなら「あの世」とでもすべきだし、仏教の儀礼に従うなら「極楽」というのがすじだ。先日、インドネシアの日系食品企業の日本人幹部が逮捕されたというニュースが流れた。圧倒的なシェアを持つ商品の調味料に、イスラム社会ではタブーの豚肉の成分を混入させたという疑いだ。宗教上の禁忌の厳格さを情報として知っていたならば、未然に防げたはずだ▼憲法二十条は「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。しかしこれは宗派教育で宗教一般ではないはずだ。「いただきます」「ごちそうさま」の言葉さえ小学校で教えない地域があるという。世界の様々な宗教の情報だけでなく「みずからの絶望や死をどう引き受けるか」という人としての基本さえ学校では誰も教えはしない▼心が凍り付くような少年犯罪の多発が、宗教不在の「戦後教育」の成果でなければいいのだが。(K)
(浄土宗新聞一面コラム鐸声 2001/06掲載)
■慈悲と縁

 日本は借金大国なのだそうだ。本年度予算ベースで、国と各自治体の長期債務残高、つまり借金は六七四兆円、乳児から高齢者まで全人口で割ると一人あたりの借金は五一〇万円、四人家族だと一家の負債額は二千万円を超してしまう。戦費に財政をつぎ込んだ昭和十年代後半以来、借金の総額が国内総生産(GDP)を、初めて上回るという未曾有の事態だという。何が日本をそうさせたのだろうか▼二〇世紀、日本人は途方もない快適な社会を作り上げた。街は清潔で、建物も道路も新しい。しかし本当に幸せなのだろうか。借金体質のばらまき型予算が、日本人のこころを少しずつむしばんではいないか。すべてをお金で換算する無理がたたり始めてはいないだろうか。出産、子育てと教育、高齢者介護、環境とまちづくり、今世紀の課題とされる問題のどれをとっても、ばらまきのお金を積んですべて解決する問題ではない。人生とその環境は所詮お金で買えるものではない▼二一世紀を迎えるにあたり、日本人はいかに生きるべきか、どう働き、どう暮らすべきなのか。その処方箋がおぼろげだが、欧州の国々を手本に見えてきた。キーワードは、ボランティアとコミュニティ。従来の経済活動の範疇からはみ出る、人のこころと直結する人間の行為だ▼自発的な慈悲の行い(ボランティア)であれ、人と人との縁づくり(コミュニティ)であれ、日本仏教が千年を超す時をかけて熟成した考え方の基本だ。浄土宗は二一世紀の劈頭にあたり、宣言文を出した。曰く「愚者の自覚をもって、仏の慈しみある家庭、社会、そして共生の世界を」と。「慈悲と縁」。新しい世紀を創造するために日本人に求められる生き方は、法然仏教の教えそのものだ。時代が仏教に追いついてきた。(K)
(浄土宗新聞一面コラム鐸声 2001/01掲載)
■苦しみの外部委託

 介護保険の運用が始まった。「要介護」「デイ・ケア」など耳慣れない用語も、高齢者がいる家庭では日常化した。重度の痴ほう老人を抱えた家族は、介護疲れから解放され、法律の恩恵を受けた主婦も多いことだろう。「高齢者社会を迎えるにあたり、家族にのみ負担が重かった従来の高齢者介護を、社会が平等に分担する」という法の言葉は美しい。しかしちょっと待っていただきたい▼今、畳の上で臨終を迎える日本人は一割を切った。病院の集中治療室で人生の最期を迎え、遺骸は霊安室からそのまま葬儀社の車で葬祭場へ向かう。納棺、通夜、葬儀、火葬とまるでベルトコンベアに乗ったかのように、業者の手によって進行する。本来、家族によって行うべき近親者の死の看取りと儀礼が、第三者に委ねられてしまった。いわば「死」のアウトソーシング(外部委託)という事態である。介護保険は人の「老い」のいたわりでさえも、安易に外部に発注してしまう傾向を生みはしないか。「介護の社会化」というかけ声は、年老いた父母の世話という、家族の情愛によってなされる行為を無意味化しないか▼お釈迦様は「人生は苦である」という認識を教えの出発点とされた。人間という存在のそのものに由来する苦しみを「四苦」と表現された。生きることも老いることもそして病いも死もすべて苦しみなのである。老いは醜いものだ。寄り添うものにとっては悲しみも誘う。しかし、それを直視することによって、人生の実相が見えてくるのではないか、本当の勇気が生まれてくるのではないか▼老いは介護施設へ、病いは病院へ、そして死は葬祭業者へという行き過ぎた「苦のアウトソーシング」は、実は「生」そのものをおろそかにする最初の一歩のような気がする。(K)
(浄土宗新聞一面コラム鐸声 2000/08掲載)

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